消された頁にも、形が残る
結界柱の予備証拠を提出してから、査定に十二日かかった。
宰相ヴェルナーは、書類の一枚一枚を、まるで毒の有無を確かめるように読んだ。間接測定の限界、断定を避けた文言、監督官の署名。どこにも、勢いで押し切ろうとした跡がない。慎重な男は、慎重に書かれたものを、いちばん警戒する。
そして、いちばん否定しにくい。
「──扉を、一枚だけ開けます」
ヴェルナーは、そう言った。
「封印書庫の、最も外側。管理目録の閲覧のみ。原典には、まだ触れさせません」
「妥当です」
リゼットは頷いた。
即答だった。あまりに潔い即答に、ヴェルナーのほうが、かすかに眉を動かした。値切られると思っていた顔である。
実際は、値切らなかったのではない。リゼットの頭の中では、すでに「一枚目の扉を開けた者は、二枚目の交渉権を得る」という次の条項が起草されていた。宰相は、まだそれを知らない。
目録だけ。原典はなし。ほとんど何も渡していないに等しい許可だった。
それでも、リゼットの胸は、静かに高鳴っていた。
鍵のかかった棚の、いちばん外側の扉が、今日、一枚だけ開く。
* * *
封印書庫は、王宮の地下にあった。
実験室のような、明るく乾いた場所ではない。降りるほどに空気は冷え、石壁からは、古い紙と、それより古い何かの匂いがした。灯りは魔石ではなく、蝋燭だった。魔力を嫌う場所なのだと、リゼットはすぐに理解した。
「魔石灯を使わないのは、正しいです」
リゼットは、階段を降りながら言った。
「封印された術式に、余計な魔力を近づけない。蝋燭は、光源として不安定ですが、干渉しません」
「感心なさっている場合でございますか」
マリーが、蝋燭の火に照らされた壁の陰影に、露骨に怯えている。
「ここは、そのあまり、気持ちのいい場所では……」
「良い書庫です」
「お嬢様の"良い"は、本当に、私にはまだ分かりません」
「湿度が低く、直射光がなく、人の出入りが少ない。紙にとっての楽園です」
「人にとっては、お墓の親戚でございます」
「お墓と違って、ここの住人は読めます」
「住人と呼ばないでいただけますか」
同行を許されたのは、リゼット、監督官二名、そしてルイスだけだった。カミーユもオルテガも、今日は地上で待たされている。王族と、その婚約者。この扉の前で、それ以外の人間の資格は、ぱたりと消えた。
最下段まで降りると、鉄の扉があった。
その前に、一人座っていた。
* * *
老女だった。
背は曲がり、白い髪を布で覆い、膝の上で分厚い帳面を開いている。蝋燭の火が届かないほど奥まった場所にいるのに、なぜかその姿だけは、はっきり見えた。
「書庫番でございます」
監督官が、緊張した声で紹介した。
「お名前は──」
「名は、要らぬ」
老女が、顔を上げずに言った。
「名は、閲覧に影響せぬ」
リゼットの足が、止まった。
その言い回しを、彼女は知っている。自分が、検証官に言われた言葉だ。いや——検証官が、自分に言った言葉と、同じだった。
「……あなたは」
「書庫番じゃ。それ以上でも、以下でもない」
老女は、ようやく顔を上げた。落ちくぼんだ目が、リゼットを、値踏みではなく、ただまっすぐに見た。
「王家に連なる娘が、目録を読みに来た。──何を、探しに来た」
「消された跡を、探しに来ました」
リゼットは答えた。
書庫番の、皺だらけの手が、一瞬だけ止まった。
「……消された跡、と言うたか」
「はい。目録に、墨で消された項目や、抜けた番号があるはずです。私が読みたいのは、残っている本ではありません。消された頁の、形です」
しばらく沈黙が落ちた。蝋燭の火が、じじ、と鳴る。
やがて、書庫番は乾いた声で笑った。
「……四十年ぶりじゃ」
「何がですか」
「この扉の前で、"残っているもの"ではなく、"消えたもの"を読みに来た者を見るのは。四十年ぶりじゃよ」
リゼットの背筋が、ぞくりとした。
四十年前。それは、エミールが、この道のどこかで潰された頃と、重なる。
* * *
鉄の扉が、開いた。
目録は、一冊ではなかった。壁一面の棚に、同じ装丁の帳面が、ずらりと並んでいる。封印された蔵書の、題名と分類だけを記した、膨大な索引だった。
中身は、ない。題名だけ。それでも、リゼットにとっては、宝の地図だった。
彼女は一冊を取り、蝋燭の下で開いた。
そして、すぐに気づいた。
墨で消された行が、無数にある。
題名が塗り潰され、分類記号だけが残ったもの。番号が飛んでいるもの。頁ごと切り取られた跡。まるで、誰かが、この索引そのものを、後から検閲したかのようだった。
「……ひどいですね」
リゼットは、静かに言った。怒りではない。感嘆に近かった。
「本を封印しただけでは、足りなかった。封印した本の"題名"すら、消している。何を封じたか、を、封じている」
「読めるか」
ルイスが、隣で聞いた。
「消された題名は、読めません。ですが──」
リゼットは、墨の上に、蝋燭を近づけた。
「消し方に、癖があります」
墨の濃淡。塗り潰しの筆の運び。消された行の間隔。それらを、彼女はいつもの目で——都合よく見ず、全部を淡々と——追っていく。
「消された項目は、ばらばらに散っているように見えて、分類記号の並びから逆算すると、ある一つの体系に集中しています。光に関する、旧い属性の術式。そのほとんどが、消されている」
リゼットの指が、止まった。
光属性。
乙女ゲームのヒロインが持つ、あの希少な属性。消されたはずの、旧い体系の。
(つながった)
胸の奥で、静かに、何かが噛み合う音がした。
* * *
だが、本当に背筋が凍ったのは、その次だった。
消された行の、そのすべての末尾に、小さな印が捺されていた。
検閲の権限を示す、認可印。誰の許可で消したかを示す、封蝋の刻印。
リゼットは、その印に見覚えがあった。ごく最近、見たばかりだった。
謁見の間。玉座の背後。垂れ幕に織り込まれていた、王家の紋章。
それと、同じだった。
いや——正確には、少し違う。今の王家の紋章より、古い。角の意匠が一つ多く、下地の線が、あの未知補助線と、同じ癖で曲がっている。
蝋燭の火が、目録の頁の上で、細かく震えていた。
地下に、風は入らない。
揺れているのは、燭台を持つ、自分の手だった。
リゼットは、それを観測した。恐怖、という語は使わない。手が震えている、という事実だけを、頭の中の記録に置く。
「……ルイス」
リゼットは、めずらしく、敬称を落とした。
「この、消したものに捺されている印。これは、あなたの家の紋章です。今のものより、古い。ですが、間違いなく、王家のものです」
ルイスの顔から、表情が消えた。
「魔法を消したのは、魔導院でも、神殿でもありません」
リゼットは、消された頁を見つめたまま言った。
「あなたの家です。この国の魔法を、いちばん最初に消したのは、王家そのものです」
蝋燭の火が、大きく揺れた。
監督官の二人が、青ざめて顔を見合わせる。書庫番だけが、動かなかった。落ちくぼんだ目で、じっと、リゼットを見ている。
「……娘よ」
書庫番が、低く言った。
「そこまで読んだ者は、四十年前に一人。その者は、二度と、地上には戻らなかった」
マリーが、息を呑む。ルイスの手が、剣の柄に触れかけて、止まった。
リゼットだけが、消された頁から、目を離さなかった。
いちばん消したくなるもの。いちばん都合の悪い線。それを、王家は、自分の家の印で、四十年前も、四百年前も、消し続けてきた。
そして今、その家に、自分は嫁ごうとしている。
(……最高に、都合が悪いですね)
リゼットの薄紫の瞳に、恐怖ではなく、あの炎が灯った。
都合の悪い線は、拾わない者たちがいる。
ならば、自分は、拾う。
「書庫番」
「なんじゃ」
「二枚目の扉を開ける条件を、教えてください」
老女は、長いこと、リゼットを見ていた。
そして、四十年ぶりに、もう一度だけ乾いた声で笑った。
「……エミールの、次の弟子か」
その名を、リゼットは、確かに聞いた。




