壁を、外から測る
結界柱の実地調査は、婚約内定から五日後に許可が下りた。
場所は、王都の北門外にある第三結界柱。王都を囲む防衛結界の、基幹柱の一つである。人の背の三倍はある石柱で、表面には、風化しかけた古い術式がびっしりと刻まれていた。
その周囲を、今日は物々しい顔ぶれが囲んでいる。
リゼット。父サイラス。屋敷付き魔術師ロアン。宮廷魔術師団からカミーユとオルテガ。そして、国王が付けた監督官が二名。さらに、少し離れた場所に、王太子ルイスと、その筆頭侍従ギルバートが立っていた。
「大所帯でございますね」
マリーが、遮光布を抱えながら言う。
「観測者が増えました」
「人員のことを、また観測者と数えていらっしゃいます」
「立会人、監督官、記録者。全員、条件です」
リゼットは、もう見慣れた言い回しで答えた。ただし、今日の条件は、実験室の紙とは重さが違う。壁一枚の向こうに、国の安全がかかっている。
* * *
「本日、触れてよいのは、公開されている結界の記録と、この柱の外側だけです」
監督官が、硬い声で釘を刺した。
「柱の内部術式には、いかなる手段でも干渉しないこと。魔力を流すことも、禁じます」
「承知しています」
リゼットは頷いた。
「今日は、外から測るだけです」
触れずに、流さずに、外から測る。五歳の日、応接間の床の陣に鼻先まで近づきながら、指一本触れられなかったあのときと、やっていることは変わらない。ただ、対象が、暖炉の飾りから、国の壁に変わっただけだった。
リゼットは、公開された結界の模式図を石畳に広げ、その横に、検証済みの二重化の条件表を置いた。
「確認します。私が探すのは、二重化そのものではありません。結界柱の術式の中に、二重化を起こす『癖』——線の途中に魔力が滞留する、あの隙間の構造があるかどうか。それだけです」
「隙間を、どうやって外から見るのですか」
カミーユが聞いた。もはや懐疑の声ではない。手順を確かめる、共同研究者の声だった。
「柱には触れません。ですが、柱の周りには、結界の魔力が薄く漏れています。その漏れの分布を測れば、内部の魔力経路が、どこで詰まっているか、外から推定できます」
「間接測定ですね」
「はい。精度は落ちます。ですが、触れずに済みます」
* * *
測定は、地味だった。
柱の周囲に、一定の間隔で測定点を取る。それぞれの点で、漏れ出す魔力の強さと向きを、ロアンが記録する。カミーユが位置を確かめ、製図係が分布図を描く。リゼットは、実験室でそうしてきたように、都合のいい数値を拾わないよう、全点を淡々と記録させた。
半日かけて、柱の一周分の分布が取れた。
その図を、リゼットは長いこと見ていた。
魔力の漏れは、柱の全周で均一ではなかった。北側の一点で、わずかに滞留している。そこだけ、漏れの向きが乱れ、外へ抜けきらずに、内側へ巻き戻る流れがある。
──世界が、線と、条件に、分解される。
『前提』設計が、正しければ。漏れは、全周で、均一のはず。
『仮説一』測定誤差。──棄却。隣接する三点が、同じ乱れを示している。
『仮説二』風化による、偶然の詰まり。──保留。ただし、模型の"あの隙間"と、挙動が同じ。
『残る問い』この滞留は、間違いか。それとも、わざと、置かれたのか。
『結論』断定せず、指す。一つ目の、証拠として。
──再構成、完了。
顔を上げると、夕方の風が、分布図の端を、小さく、めくった。
「……ここです」
リゼットは、図の一点を指した。
「北側の、この高さ。ここで、魔力が抜けきらずに滞留しています。二重化を起こした模型の、あの隙間と、同じ挙動です」
オルテガが、白い眉の下から図を覗き込んだ。
「間接測定だ。断定はできんぞ」
「断定しません」
リゼットは即答した。
「ですが、『結界柱の術式に、二重化と同じ滞留構造がある』という予備的な証拠には、なります。陛下が求めたのは、一つの証拠です。これが、その一つ目です」
監督官の一人が、記録板に何かを書き込んだ。その手が、少しだけ速かった。
* * *
だが、リゼットの表情は、晴れなかった。
「気持ちが悪いですか」
ルイスが、いつの間にか隣に来ていた。
「はい」
リゼットは、正直に答えた。
「滞留があるのは分かりました。ですが、それが本当に、嵐で崩壊につながるのか——そこは、外からの測定では、絶対に分かりません」
「なぜ」
「滞留が、どういう命令でそこに置かれているのか。設計者が、わざとそうしたのか、間違えたのか。それを読むには、術式そのものの、元の言語が要ります」
リゼットは、遠く、王宮の方角を見た。
「検閲される前の、古い術式の言語。市販の本にも、学院の専門書にもない。読めるのは、封印書庫の、古代魔導書だけです」
外から測れるのは、ここまで。
壁の表面をどれだけ丁寧になぞっても、壁の中に誰が何を書いたのかは、扉を開けなければ読めない。
禁書庫が、必要だった。今日の証拠は、そのための一枚目の鍵だった。
「一枚目の扉が、開きそうか」
ルイスが聞く。
「開かせます」
リゼットは言った。
「これは予備的な証拠です。弱い。ですが、宮廷が『調べる価値がある』と認めた記録の上に、もう一枚、積みました。積むごとに、扉が開く約束です」
「相変わらず、交渉が細かい」
「約束は、条件です」
* * *
帰りの馬車で、マリーが、遠慮がちに切り出した。
「お嬢様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「王太子殿下と、その……ご婚約なさって。お嬢様は、本当に、よろしいのでございますか」
リゼットは、窓の外を流れる王都の街並みを見ていた。街灯の陣。橋の補強陣。そのいくつかにも、あの癖の線が、薄く混じっている。
「マリー。乙女ゲームの話を、覚えていますか」
「あの、恋愛小説の……はい」
「あの筋書きが正しいなら、いずれ学院に、光属性のヒロインが現れます。そして、王太子の婚約者である私は、その物語の邪魔をする悪役令嬢として、断罪される役どころです」
マリーの顔が、青ざめた。
「では、なぜ……!」
「破滅ルートに、自分から入りました」
リゼットは、静かに言った。
「ですが、これは天秤です。片方に、悪役令嬢としての破滅。もう片方に、国の壁を救うことと、この世界の消された魔法を読むこと。──どちらが重いか、計算するまでもありません」
「お嬢様……」
「それに」
リゼットは、少しだけ目を細めた。
「破滅も、条件の一つです。条件なら、管理できます。いつ、誰が、どうやって私を断罪しようとするのか。筋書きを知っているのは、こちらの利です」
マリーは、言葉を失った。
ただ、一つだけ、気づいていた。
その言葉を口にしている間、お嬢様の指は、膝の上の手記の角を、何度も、同じ場所でなぞっていた。紙の角が、そこだけ、丸くなりかけている。
管理できます、と言い切る人の指が、する仕草ではなかった。
七歳の令嬢が、自分の破滅すら、条件表に載せようとしている。
心配で、たまらない。
けれど、その横顔は、五歳で床の陣に恋をした日から、何ひとつ変わっていなかった。
分からないものを、消さない。都合のいい線を、拾わない。そして、どんなに大きな謎の前でも——
「……面白くなってきました」
リゼットの薄紫の瞳に、静かな炎が灯る。
禁書庫の扉は、まだ一枚も開いていない。ヒロインも、まだ現れていない。
だが、盤面は、ようやく動き始めていた。




