証拠のない警告は、届かない
王宮の謁見の間は、実験室とは何もかもが違った。
高い天井。磨かれた大理石。金糸の垂れ幕。玉座までまっすぐ延びる、赤い絨毯。ここに立つ者は、まず自分の小ささを思い知る造りになっている。
リゼットは、絨毯の縁に組まれた魔力抑制の陣を見ていた。
「お嬢様」
斜め後ろで、マリーがほとんど声にならない声で言う。
「陛下の御前でございます。床ではなく、人を」
「見ています。玉座の背後に、古い結界補助陣があります」
「人を、でございます」
リゼットは視線を上げた。
玉座には、国王が座っていた。ルイスによく似た金髪に、白いものが混じっている。青灰色の瞳は、息子のそれより、ずっと乾いていた。人の欲を、長く見すぎた目だった。
その右手には、宰相が控えている。痩せた初老の男で、名をヴェルナーという。宮廷で最も慎重で、最も動かない、と言われる人物だった。
* * *
「シルヴァーヌ侯爵家の令嬢が、国の結界に欠陥があると申し立てている。──そう聞いた」
国王の声は、穏やかだった。穏やかすぎて、逆に何も読めない。
「間違いか」
「間違いではありません」
リゼットは答えた。サイラスの肩が、わずかに強張る。
「ただし、正確に申し上げます。私が確認したのは、結界の基幹術式に、ある構造が含まれていること。そして、その構造が、私の観測した二重化現象と同じ癖を持つこと。──ここまでです」
「結界が崩れる、とは言わぬのか」
「言えません。証明していません」
宰相ヴェルナーの眉が、ほんのわずかに動いた。
「奇妙な申し立てですな。国を揺るがす警告をしておきながら、その警告を、ご自分で否定なさる」
「否定していません。限界を申し上げています」
リゼットは、実験室でそうしてきたのと同じ口調で続けた。
「魔力嵐が来れば結界が崩れる、と断言するのは簡単です。ですが、断言できるだけの記録が、まだありません。今の私に言えるのは、『危険を疑う理由がある』。それだけです」
「では、我々は何をすればよい」
国王が言った。
「証拠のない警告に、国は動けぬ。分かっているか」
「分かっています」
リゼットは頷いた。
「ですから、証拠を取りに来ました」
* * *
謁見の間に、短い沈黙が落ちた。
ヴェルナーが、静かに口を開く。
「証拠を取るには、封印書庫の古代魔導書が要る。そう聞いております。あの書庫は、王族と、王が特に許した者しか触れられません」
「はい」
「令嬢は侯爵家の娘。閲覧の資格はない。──では、どうやって取るおつもりか」
そこが、輪の閉じるところだった。
結界の欠陥を証明するには、禁書庫の原典が要る。禁書庫に入るには、王族の身分が要る。王族の身分を得るには、婚約が要る。婚約を認めさせるには、結界が危ういという証拠が要る。
証拠が、証拠を取るための鍵の、そのまた鍵になっている。
実験室で何度も見た構図だった。参考記録という壁。信じてもらえなければ資料が得られず、資料がなければ信じてもらえない。相手が紙から王宮に変わっただけで、輪の形は、まったく同じだった。
「輪になっています」
リゼットは言った。
「証明には原典が要る。原典には身分が要る。身分には証明が要る。このままでは、誰も最初の一歩を踏めません」
「その通りだ」
国王が、初めてわずかに身を乗り出した。
「で、令嬢は、その輪をどう切る」
「切りません。細い隙間を、一つだけ使います」
リゼットは、懐から一枚の写しを出した。
「王宮魔術師団の正式記録です。私の観測は、『未説明観測』として登録されています。誤りでもなく、証明済みでもない。説明を待っている観測、という分類です」
ヴェルナーの目が、その一語に留まった。
「これは、宮廷が公式に、『説明のつかないものが、確かにある』と認めた記録です。私個人の主張ではありません。団長オルテガの署名も、学院検証官の判も入っています」
「……それが、輪の隙間か」
「はい。証拠はまだありません。ですが、『調べる価値がある』ことは、すでに宮廷自身が認めています。ならば、いきなり結界の証明を求めず、まず段階を踏めます」
* * *
ルイスが、そこで一歩前に出た。
「陛下。私からも」
国王が、息子に視線を移す。
「結界の件は、婚約の有無に関わらず、国として調べる価値があります。未説明観測は、宮廷の記録に残っている。放置して、八年後に嵐が来て、もし結界が実際に崩れたなら──『あの時、記録はあった』と言われます」
その一言で、宰相ヴェルナーの表情が、初めて曇った。
記録は、消えない。記録された危険を無視した、という事実もまた、消えない。宮廷で最も慎重な男が、いちばん恐れるのは、それだった。
「陛下」
ヴェルナーは、低い声で言った。
「……全面的な閲覧許可は、危険です。ですが、完全な黙殺も、後々、危険です」
「では、どうする」
「段階を、と令嬢は申しました。それに乗るのが、最も損の少ない道かと」
国王は、しばらく玉座の肘掛けを指で叩いていた。
やがて、口を開く。
「シルヴァーヌ侯爵家の令嬢、リゼット」
「はい」
「王太子ルイスとの婚約を、内定とする。正式な婚姻は、双方が学院を出た後だ。それまでは、王家に連なる者としての、限られた資格のみを与える」
リゼットの薄紫の瞳が、静かに光った。
「まず、結界の公開記録と、王都近郊の結界柱の実地調査を許可する。監督官をつける。そこで、結界に欠陥がある予備的な証拠を、一つでも出してみせよ。──出せたなら、その時に、封印書庫の一部を開く」
「一部、でございますか」
「一度に全部は開けぬ。お前が証拠を積むごとに、扉を一枚ずつ開ける。それが条件だ」
リゼットは、深く頭を下げた。
「妥当です」
「妥当、と王に言う令嬢は、初めてだ」
国王は、乾いた目のまま、ほんのわずかに口の端を動かした。
* * *
謁見の間を出ると、マリーが糸の切れた人形のように壁に手をついた。
「お嬢様……陛下に、妥当、と……」
「事実です」
「事実でも、心臓に悪うございます」
リゼットは答えず、廊下の窓から、遠くに見える王宮の外壁を見ていた。あの壁に、二重化と同じ癖の線が眠っている。今日、その壁を調べる許可が、ようやく下りた。
証拠を積むごとに、扉が一枚ずつ開く。禁書庫の古代魔導書が、少しずつ、近づいてくる。
(悪くない条件です)
そして、彼女は、もう一つのことも冷静に理解していた。
王太子の婚約者。乙女ゲームで、ヒロインがいずれ立ち向かう相手。物語が始まれば、悪役令嬢の椅子は、正式に自分のものになる。避けてきた盤面に、今日、自分から駒を進めた。
それでも、指先は少しも震えていなかった。
隣で、ルイスが小さく言った。
「後悔しても、遅いよ」
「後悔は、変数として扱いません」
「知ってる」
ルイスは、苦笑した。
「そう言うと思った」




