鍵のかかった書庫への、最短経路
検証官の予告は、正しかった。
「未説明観測」の報告が学院に届いて十日で、王都の空気が変わった。学院は理屈で騒ぎ、宮廷は理屈以外で騒いだ。六歳の侯爵令嬢、王太子の隣に立つ娘、宮廷魔術師団長までが当事者の、説明のつかない現象。放っておいて済む話ではなくなっていた。
なお、当のリゼットは、その騒ぎの十日の間に、静かに七歳になっていた。
祝いの席は、ささやかに設けられた。マリーが焼き菓子を並べ、サイラスが公務の合間に顔を出し、ロアンが小さな包みを一つ置いていった。
「七歳でございますよ、お嬢様」
マリーが、砂糖細工の飾りを皿に添えながら言った。感慨を込めたつもりだったが、当のリゼットは、届いたばかりの祝い状を裏返し、封蝋に押された印を、灯りに透かして眺めていた。
「マリー。この封蝋の紋、六画で閉じていません。──途切れた線が、内側で一度、折り返しています」
「お誕生日の話をしております」
「聞いています。七歳です」
「印の話は、しておりません」
サイラスが、茶を一口含んで、低く笑った。
「早いものだ。去年の今頃は、まだ屋敷の陣を、指で数えていた」
「今も数えています」
「数える対象が、屋敷から王宮に変わっただけか」
「規模が変わりました。原理は同じです」
マリーは、砂糖細工を一つ、リゼットの皿に載せた。幾何学模様だと言い張られる前に、食べさせてしまうつもりだった。──七歳の一日は、こうして、菓子と封蝋と、変わらない横顔とともに、過ぎていった。
だが、リゼットの机の上で本当に動いたのは、噂ではなかった。
彼女は、五歳の日から使っている一番古い手記を開いていた。応接間の暖炉の陣。第一用水路の石碑。そして、王宮の外壁に組まれた防衛結界の、貴族向けに公開された模式図。
その三枚に、検証済みの二重化の署名——格子三の七に現れる、あの弱い線太りの条件——を重ねる。
同じだった。
曲がり方の癖も、線の途中に滞留する隙間も、全部。
「……やはり、同じ設計です」
リゼットは呟いた。声は落ち着いていたが、指先は模式図の一点を強く押さえていた。
結界にも、同じ穴がある。五歳のあの夜、紙の上で出してしまった結論を、今ようやく、証明可能な形の入口まで運んできてしまった。
* * *
その日の午後、書斎にはサイラス、ルイス、エミール、オルテガが集まっていた。
リゼットは、結界模式図と二重化の記録を並べて見せた。断定はしない。いつも通り、条件と限界から話す。
「結界の基幹術式に、模型と同じ構造があります。ただし、模型で二重化が出るのは中間光量・特定条件だけでした。結界がその条件に入るのは──」
「魔力が、大きく揺れたとき、じゃな」
エミールが、白い眉の下から言った。
「十年に一度の、魔力嵐か」
書斎が静まった。
オルテガが低く言う。
「次の嵐は、暦の上では四年以内です。宮廷の観測でも、そろそろ、という声はある」
四年。
これまで、締切のない研究だった。紙が乾くのを待ち、術者が休むのを待ち、いくらでも条件を増やしていられた。だが今、初めて、待てない理由が机の上に載った。
「はっきりさせておきます」
リゼットは言った。
「今の私に言えるのは、『結界に同じ癖がある』『魔力嵐でその癖が二重化を起こしうる』、そこまでです。二重化が結界の崩壊に直結するかは、まだ証明できていません」
「では、証明するには」
ルイスが聞く。
「現代理論では足りません。この構造は、標準表記に整えられる前の、古い術式の思想です。エミール先生の写本にも断片しかない」
リゼットは顔を上げた。
「検閲される前の原典が要ります。おそらく、王宮の封印書庫に。──古代魔導書です」
サイラスの顔が、はっきりと強張った。
「禁書庫は、王族しか触れられん」
「はい」
リゼットは頷いた。そこから先を、彼女は感情を一切混ぜずに、条件表を読むように続けた。
「侯爵令嬢の立場では、閲覧権は得られません。学院の正式研究員でも、時間がかかりすぎます。四年では間に合わない可能性が高い」
「では、どうする」
「閲覧権を持つ身分に、最短経路で入ります」
リゼットは、ルイスを見た。
「王太子妃、あるいはその婚約者です」
* * *
マリーが、茶器を落としかけた。
サイラスが、額を押さえた。
ルイスだけが、少しの間、リゼットをまっすぐ見返していた。
「政略結婚、と言っているのか」
「はい。恋愛ではありません」
リゼットの声は、七歳の令嬢のものとしては、あまりに事務的だった。
「殿下にも利があります。結界の欠陥を、婚約者の研究として国家防衛の枠組みに入れられる。宮廷の懐疑派を、身分と大義の両方で黙らせられる。私にとっては、禁書庫への閲覧権。互いの利害が、一本の線でつながります」
「……お嬢様」
マリーが、震える声で言った。
「それは、ご自分の一生を、書庫の鍵と交換するというお話でございますよ」
リゼットは少し考えた。
「交換ではありません。両立です」
その言い方は、いつも通りだった。だが、その裏で、彼女の中では別の計算が、静かに、しかし猛烈に回っていた。
検閲される前の、この世界の本当の魔法。誰かが危険だからと消し、鍵をかけて封じた知識。それが、王太子妃の椅子ひとつで、合法的に、目の前で開く。
破滅フラグは知っている。乙女ゲームの筋書きも覚えている。王太子の隣に立てば、いずれヒロインが現れ、悪役令嬢の座に自分が座ることになる。避けてきた道に、自分から踏み込むことになる。
全部、承知の上だった。
それでも。
(この国でいちばん読みたい本が、鍵のかかった棚の奥にあって、その鍵が、目の前にある)
リゼットの薄紫の瞳に、五歳の日と同じ炎が、静かに灯った。
国家の危機。破滅の未来。政略という名の檻。
そのすべてを天秤に載せて、彼女が最後に出した結論は、あの夜と同じ言葉だった。
「……最高じゃないですか」
* * *
ルイスは、その横顔を長いこと見ていた。
王太子として見られたことは、まれにある。王太子として利用されようとしたことも、数えきれない。だが、王太子の身分を「鍵」と言い切り、その上で国の壁を本気で救おうとしている人間は、初めてだった。
「一つ、確認させてくれ」
ルイスは言った。
「君は、僕と結婚したいわけじゃない。禁書庫を開けたいし、結界を救いたい。そのために、いちばん効く手段が、たまたま僕だった。そういうことだね」
「はい。ご不快でしたら──」
「いや」
ルイスは、静かに笑った。
「君らしくて、いっそ信用できる。少なくとも、僕を『次期国王』としてしか見ない令嬢よりは、ずっと」
そして、ふと、王太子の顔が外れた。
「──面白い」
その一言は、次期国王の判断ではなかった。目の前に置かれた難問へ、少年が手を伸ばす時の声だった。
「呑もう」
軽い言葉だった。
だが、その目だけは、少しも軽くなかった。覚悟を決めた者の、目だった。
サイラスは天を仰ぎ、マリーは声にならない声を上げた。
二言だった。
その二言が、これから十年ぶんの道を決めたことを、まだ、誰も知らない。
彼はサイラスに向き直り、王太子の顔に戻った。
「シルヴァーヌ侯爵。正式な話は、場を改めて。ただ、結界の件は、婚約の有無に関わらず、国として調べる必要がある。それだけは、今日決めていい」
サイラスは、深く息を吐いた。娘が七歳にして王太子との政略結婚を自分から設計したことに、父としては倒れそうだった。だが領主としては、この国の壁に穴が空いているなら、見なかったことにはできなかった。
怖い。理解できるから、なお怖い。ここ数年で、その感覚にはすっかり慣れてしまった。
* * *
その夜、リゼットは新しい手記を開き、最初のページに題名を書いた。
『結界欠陥の検証および、禁書庫古代魔導書へのアクセス計画』
少し考えて、横に小さく書き足す。
『手段:政略結婚(王太子ルイス)』
『対外的名目:国家防衛』
『真の目的:原典の閲覧』
『既知のリスク:悪役令嬢としての破滅ルート』
『注意:恋愛感情は、今回も変数として扱わない』
七歳の令嬢の計画書としては、あまりにも物騒だった。初めて研究計画を書いたあの日のものと、骨格は何ひとつ変わっていない。ただ、規模だけが、屋敷の照明陣から国の壁へと、静かに跳ね上がっていた。
羽ペンが紙の上を走る。カリカリ、カリカリ。
それは、五歳の日に始まった長い探求が、ようやくタイトルの約束へと踏み出す音だった。
王太子も、禁書庫も、古代魔導書も、もう遠くない。
その手前に、破滅の未来と、国の崩壊が、同じ一本の線でつながって待っている。
リゼットは、少しも怯えていなかった。
むしろ、これまでのどの夜より、頭が冴えていた。




