検証官は、まだお茶を飲まない
検証役は、灰色の外套を着た年配の女性だった。
小実験室の入口で足を止め、まず部屋を一周、目だけで回った。窓、光源、机の配置、観測者席、遮光箱。挨拶は、それが終わってからだった。
「窓は東向き。本日は曇り。自然光の混入は弱い。──ですが、塞いでいただきたい」
「布と板を用意してあります」
事務官が即答した。検証官の眉が、ほんのわずかに動く。
「用意してある、とは」
「あなたさまが門前で空と建物の影をご覧になったと、報告を受けましたので」
検証官は、二階の窓を一度だけ見上げた。あの時、視線には気づいていたらしい。
「学院から来ました。検証官とお呼びください」
「お名前は」
事務官が様式を構えて聞く。
「書類にはこう書いてください」
検証官は身分証を出した。事務官がそれを写す。
「呼び名は、検証官で結構。名前は観測に影響しません」
リゼットの目が、わずかに光った。
マリーはその横顔を見て、悟った。お嬢様はこの人を、もう気に入っている。
「お茶をお持ちいたします」
マリーが言うと、検証官は首を振った。
「試験後に」
「長丁場でございます」
「観測の前に、出された物は口にしません。眠くなる茶や、集中の切れる甘味が混ざる可能性を、検証する手間が惜しい」
マリーは絶句した。
疑われたからではない。その理屈の組み立て方が、毎日聞いている誰かの理屈と、まったく同じ形をしていたからである。
「血糖条件は、観測精度に影響します」
リゼットが言った。
いつも言われる側の台詞を、初めて言う側で使った瞬間だった。
「影響します。ですから、持参しています」
検証官は外套の隠しから、小さな包みを出した。固い保存麦菓子である。
「成分を把握している物だけを、決めた時刻に食べます」
「……完璧です」
リゼットが言い、マリーは、この部屋に二人目が来てしまった、と思った。
* * *
点検は、一刻かかった。
検証官は封紙を一枚ずつ確かめ、遮光箱の内側に手を入れ、補助格子を光に透かし、手順書を最初から最後まで、二度読んだ。
遮光羽根の治具に触れたとき、検証官の手が初めて止まった。
「削り幅が一定です。この治具は、誰が」
「私だ」
壁際から、オルテガが言った。
検証官は治具と団長を見比べた。
「オルテガ。宮廷魔術師団長が、治具係ですか」
「適材適所だ。久しいな」
「三十年ぶりです。あなたが手を動かしているところを見るのは、学院の演習以来になります」
「あの頃より腕は落ちていない」
「治具を見れば分かります」
それきり、二人の会話は終わった。マリーは、年配の研究者同士の安否確認は治具で済むらしい、と学んだ。
その間、誰も検証官を急かさなかった。急かしてはいけない相手だと、全員が分かっていた。
二度目を読み終えたとき、検証官は初めて、書類から顔を上げた。
「この手順書は、誰が」
「私です」
リゼットが答えた。
検証官はリゼットを見た。六歳の令嬢を、頭から爪先まで。それから、もう一度手順書を見た。
「『観測者の申告は筆記のみ』。この一行は」
「予行で、観測者が部屋の空気を読むことが分かりました。当たれば空気が変わり、外れれば誰かが首をかしげます」
「気づいたのは」
「殿下です」
リゼットはルイスを示した。検証官の視線がルイスへ動き、小さく一礼が返る。
「良い目です」
「恐縮です」
ルイスは王太子として礼を返したが、マリーには、褒められた少年の顔が一瞬だけ混ざったのが見えた。
検証官は手順書を置いた。
「一つ、追加の要求があります」
外套の隠しから、薄い紙の束が出てきた。
「私が漉かせた紙です。製法は貴宮のものと近いが、同一ではない。この紙でも一試行、見せていただきたい」
部屋の空気が、わずかに張った。
事務官が在庫表を握りしめる。マリーはリゼットを見た。条件が崩される──そう思った。
「やりましょう」
リゼットは即答した。
「ただし、本試験とは別記録です。その紙は別ロットですので、出ない可能性が高い。出なくても候補の判定には使いません。──出れば、紙の条件が想定より緩いと分かります。どちらでも、情報になります」
検証官は、リゼットをじっと見た。
「断ると思いましたか」
「条件の説明なしに受けるか、説明して断るか、だと思っていました。説明して受けるのは、三つ目の答えです」
検証官は手帳に何かを書いた。誰にも見せなかった。
* * *
本試験が始まった。
予測の封筒は、封紙と時刻記録のうえ、検証官自身の手元に置かれた。検証官は観測者席に着き、補助格子と試験前の写しを受け取る。席からは、紙面と写しだけが見える。
ロアンの申告は『温感なし』。
「以後、室内の発声は時刻の読み上げのみとします」
事務官が宣言し、部屋から言葉が消えた。
第一試行。
光が斜めに入り、影が術式線を撫でる。
砂時計が落ちる音だけがする。
検証官の羽ペンが、一度だけ動いた。
何を書いたのかは、誰にも見えない。
リゼットは自分の手元の記録だけを見ていた。見るべきものはそこにしかない、という顔で。ただ、マリーには分かった。お嬢様は今、生まれてから一番、他人の手元を見たいのを我慢している。
四半刻の休息。
検証官は決めた時刻に保存麦菓子を一つ食べ、水を飲んだ。マリーはリゼットにサンドイッチを出した。リゼットは無言で二切れ食べた。条件である。
第二試行。
半ばを過ぎたころ、廊下で足音がした。
誰かが走り、遠ざかっていく。それだけである。だが、室内の何人かの肩が、わずかに動いた。
事務官の羽ペンが、静かに走る。
『外乱記録:観測中、廊下に足音。室内への光・振動の影響は認められず。記録のみ』
検証官はそれを横目で見て、自分の手帳にも何かを書いた。外乱を書いたのか、外乱を記録する事務官を書いたのかは、分からなかった。
試行は続いた。
検証官の羽ペンの音は、しなかった。
マリーは祈った。書かないのが悪い報せなのか良い報せなのか分からないまま、とりあえず祈った。
第三試行。
ロアンの申告は『温感ごくわずか』。筆記で提出され、検証官がそれを読み、続行に頷く。
光が斜めに入る。
長い静寂の底で、検証官の羽ペンが、一度だけ動いた。
白紙対照。
羽ペンが動いた。
持参紙の試行。
羽ペンが動いた。
──全部で四回。どの試行で何を書いたのか、組み合わせは誰にも分からない。
* * *
「以上で、観測を終了します」
事務官の声で、部屋に言葉が戻ってきた。
全員が、止めていた何かを吐き出した。ロアンは肩を回し、製図係は羽ペンを置き、オルテガは天井を仰いだ。団長は観測が始まってから、装置担当として一言も発さずに立ち続けたのである。
机の上に、すべてが並べられた。
封のされた予測の封筒。
検証官の格子図。
ロアンの流量記録と、製図係の影端記録。
事務官が、手順書の最後の一行を読み上げる。
「『開封は全試行終了後、検証役と事務官の立会いの下で行う』」
検証官は封筒を手に取り、封紙の時刻を確かめ、それから初めて、マリーの方を向いた。
「お茶を」
「……今、でございますか」
「観測は終わりました。ここからは答え合わせです。答え合わせには、お茶が要ります」
マリーは、泣きそうな顔で頷いた。この半日、この瞬間のためにお湯を絶やさなかったのである。
湯気の立つ茶器が並び、検証官は一口飲んで、短く言った。
「良いお茶です」
「ありがとうございます」
マリーの声は、少しだけ震えていた。
検証官は茶器を置き、封筒の封紙に指をかけた。
「では、開けます」




