失敗できる回数を、数える
検証役の来訪まで、あと四日。
通し予行の朝、小実験室に入ってきた事務官は、いつもの記録票ではなく、一枚の在庫表を持っていた。
「ご報告があります」
その声の硬さで、全員が手を止めた。
「統一下地紙の同一ロット残量は、十二枚です」
沈黙が落ちた。
統一下地紙は、同じ原料、同じ漉き方、同じ下地量でそろえた紙である。紙を疑いはじめた日からの試験は、すべてこのロットで行われてきた。線太りが出たのも、このロットだった。
「新しく漉けば」
マリーが言いかける。
「別ロットになります」
リゼットが答えた。
「原料の槽が変われば、紙は別の紙です。同じ手順で漉いても、同一条件とは言えません」
「では、その十二枚で」
「本番をやります。三回連続試験で三枚。白紙対照で一枚。予備を含めて、最低五枚は本番に残します」
リゼットは在庫表を見つめた。
「残り七枚。それが、本番までに使える枚数です」
「通し予行で三枚使えば、四枚」
カミーユが言う。
「予行をもう一度やれば、一枚」
「失敗できる回数が、数えられるようになってしまいましたね」
ルイスが静かに言った。
今までは、紙は条件だった。
今日から、紙は資源でもある。
そして、数えられるようになったのは、紙だけではなかった。
リゼットは、もう一つの数を数えていた。前の嵐から、何年。次まで、何年。
紙は、漉けば増える。別ロットにはなるが、増える。
その数だけは、増えない。
──七枚で、足りるように組む。
そして、数えていない数が、一つ、あった。
五歳の終わりに書いた計画書の、いちばん下の行。『目的3:小説に記載された破滅条件を回避する』。あの一行だけが、あれから一度も更新されていない。
(……順番が、入れ替わりました)
破滅を避けるために、王太子へ近づく計画だった。今は、二重化を証明するために、王太子と同じ机に着いている。手段と目的が、静かに、位置を交換していた。
筋書きが正しいなら、いずれ光属性の少女が現れ、王太子の隣にいる令嬢は、邪魔者の配役に回る。──その配役表は、まだ、破棄されていない。
リゼットは羽ペンを持ち直し、記録紙の隅に、小さく一行だけ足した。
『保留中の条件:一件。更新は、材料が揃ってから』
保留は、忘却ではない。
紙の残り枚数の下に、その一行を並べて書いてから、彼女は顔を上げた。
* * *
「予行を削りますか」
事務官が聞いた。
リゼットは、すぐには答えなかった。羽ペンの先で、記録紙の端を一度だけ叩く。
「いいえ。予行は全部やります。ただし、同一ロット紙は使いません」
「現象が出ない紙で、ですか」
「はい」
リゼットは顔を上げた。
「予行で確かめたいのは、線ではありません。人と、手順です。封筒の封紙、補助格子の渡し方、写しの取り方、席の位置、時刻記録。それらは、紙がどのロットでも検証できます」
「線が出ないと、観測者役の練習になりませんが」
カミーユが指摘する。
「出ない日もある、という練習になります」
リゼットは言った。
「本番で三回とも出る保証はありません。出なかったときに手順が崩れないことも、確かめておくべきです」
カミーユは少しの間リゼットを見て、それから頷いた。
「……完全に正しいです。正直、私が言うつもりの台詞でした」
「先に言いました」
「先に言われました」
マリーはお茶を注ぎながら、この師弟のような何かの会話の勝敗記録を、心の中でつけはじめていた。本日、お嬢様の一勝。
* * *
通し予行は、別ロット紙で行われた。
手順書の通り、最初から最後まで。予測を書き、封筒に入れ、封紙をし、時刻を記録する。観測者役はマリー。補助格子と試験前の写しを渡す。
そして、穴は四つ見つかった。
一つ目。観測者の席から、記録水晶が見えた。
「水晶の光り方が見えると、観測者は線ではなく水晶を待ちます」
リゼットが言い、席の向きが変えられた。観測者からは紙面と写しだけが見える配置になった。
二つ目。封筒を開ける時刻が、決まっていなかった。
「試験直後に開けるのか、全試行終了後に開けるのか。決めていないと、一回目の結果を見てから開けたい誘惑が生まれます」
カミーユの指摘で、『開封は全試行終了後・検証役と事務官の立会いの下』と手順書に書き足された。
三つ目は、ルイスが見つけた。
予行の途中、マリーが試しに「ここが太い気がいたします」と声に出した瞬間である。ロアンの視線が、無意識に記録水晶へ動いた。製図係の手も、一瞬だけ止まった。
「今の、見えたかい」
ルイスが言った。
「観測者が声に出すと、部屋が反応する。当たっていれば空気が変わるし、外れていれば誰かが首をかしげる。観測者は二回目から、線ではなく部屋を読むようになる」
マリーが青ざめた。
「私、読みます。確実に読みます。侍女長は空気を読む職業でございます」
「職業病ではありません。人間の仕様です」
リゼットは言った。
「申告は口頭ではなく、手元の格子図への書き込みのみとします。観測者の周囲に、結果を知る者の顔が見えない配置にします」
手順書に、また一行増えた。
『観測者の申告は筆記のみ。試験中、室内の発声は時刻読み上げに限る』
四つ目は、事務官自身が見つけた。
「時刻記録の様式に、観測者の申告時刻を書く欄がありません。観測者が『太い気がする』と言った時刻と、術者が魔力を流した時刻のずれが、後から比較できません」
リゼットは事務官を見た。
「その欄は、重要です」
「作ります。今夜中に」
「様式の改訂は決裁が」
「私が決裁経路です」
事務官は言い切った。マリーは、この人は最初、紙を数えに来ただけの人だったはずだと思った。
予行の最後、別ロット紙の試験は、予定どおり何も出さずに終わった。
マリーは観測者役として、何も出なかったことを、新しい手順どおり一言も発さず、格子図に書いて提出した。
『変化なし。全升目、写しと一致』
「良い申告です」
リゼットは記録した。
『通し予行:穴三つ。すべて修正』
『観測者、無変化を正しく申告』
出ない日の練習も、ちゃんと練習になった。
* * *
夕方、オルテガが小実験室に顔を出した。
団長は在庫表と修正済みの手順書を眺め、白い眉を片方だけ上げた。
「学院に出す手順書としては、上等すぎるな」
「過剰でしょうか」
「逆だ。学院の連中は理屈っぽい。理屈っぽい相手には、理屈の壁を先に積んでおくに限る」
オルテガは手順書を置き、少しだけ声を低くした。
「ただし、一つ覚えておきなさい。学院から来るのが誰であれ、向こうは『宮廷が六歳の令嬢の研究に振り回されている』という噂ごと検証しに来る。見られるのは線だけではない」
「私も、ですか」
「あなたも、この部屋全体もだ」
リゼットは少し考えた。
「観測対象が増えただけです。こちらの手順は変わりません」
オルテガは声を出して笑い、ルイスは笑いをこらえ、事務官は『観測対象:当方全員』と書きかけて、さすがにやめた。
* * *
その夜、というより、その深夜である。
小実験室には、まだ灯りがついていた。
リゼットが手順書の最終清書をしていたのである。明日でもよい作業だった。本人以外の全員が、明日でもよいと知っていた。
扉が開き、マリーが入ってきた。
手には皿ではなく、一枚の紙を持っていた。壁に貼ってある、あの紙の写しである。
『記録者休息:第二試行後に四半刻』
「本番は四日後でございます」
マリーは静かに言った。
「記録者が本番前に倒れた場合、検証は延期になります。延期になれば、同一ロット紙の保管日数が延び、保管条件の管理項目が増えます」
リゼットの羽ペンが止まった。
反論を探す。紙の保管延長は事務官が管理できる。延期は手順に影響しない。私は倒れない。──最後のひとつが、いちばん弱かった。倒れないという予測は、これまで何度か外れている。
「……あと一行だけ」
「一行だけでございます」
マリーは横に立ち、本当に一行で羽ペンを取り上げた。
リゼットは抵抗しなかった。代わりに、取り上げられる寸前に書き終えた一行を指した。
『記録者の過信も、管理項目とする』
「ご自分で書かれましたか」
「書かされた気もします」
「どちらでも、効きます」
灯りが消え、小実験室は静かになった。
* * *
四日後の朝。
王宮の門に、学院の紋章を付けた馬車が停まった。
降りてきた人物は、出迎えの挨拶より先に、まず空を見た。
雲の量と、太陽の高さ。
それから建物に目を移し、小実験室のある棟の、窓の向きと影の角度を確かめた。
その視線の動きを、二階の窓からリゼットが見ていた。
「……良い検証役です」
「まだ降りてきて十秒でございます」
マリーが言った。
「十秒で、光の条件を二つ確認しました」
リゼットは窓から離れ、整えられた机と、十二枚の紙と、封筒の束を振り返った。
失敗できる回数は、数えてある。
手順の穴は、塞いである。
記録者は、よく眠った。
「始めましょう」
検証の日が、始まった。




