教えすぎると、見えてしまう
候補登録の書類は、三日かかった。
事務官が重複欄を七つ潰したにもかかわらず、三日である。潰す前なら五日だったと言われ、リゼットは世の中の仕様について考えるのをやめた。
四日目の朝、小実験室の机には、書類の代わりに白い紙が一枚置かれていた。
『検証試験・想定手順(案)』
「今日の目的は、検証役を迎える準備です」
カミーユが言った。
「学院への依頼状は団長名で出しました。返事を待つ間に、こちらの手順を固めます」
「手順は、いつもの通りでは」
ルイスが聞く。
「いつもの通りでは、駄目なのです」
カミーユは首を振った。
「問題を一つ、お見せします」
* * *
カミーユは、リゼットに向き直った。
「検証役が来ます。あなたは現象を見せたい。さて、試験の前に、線太りの出る位置を教えますか。教えませんか」
「教えます」
リゼットは答えた。
「検出限界付近の現象です。どこを見るべきか知らなければ、見落とします」
「では教えたとしましょう。検証役は線端を凝視します。そして、線が太く見えたと言いました。──その報告は、信用できますか」
リゼットの言葉が、止まった。
少しの沈黙のあと、彼女はゆっくり言った。
「……できません。出ると聞いて見れば、出ていなくても、出たように見えます」
「はい。観測者の期待は、記録を汚します」
「では教えなければ」
「先ほどあなたが言った通り、見落とします」
教えれば、ない線まで見える。
教えなければ、ある線も見えない。
「詰んでいませんか」
マリーが思わず言った。
「……詰んでは、いません」
そう答えたが。今度は、いつもの、即答では、なかった。
解けるはずだ、という確信だけが、先にあって。答えの形は、まだ、見えていない。リゼットは、眉の間に、皺を寄せた。指先が、机の上を、意味もなく、二度、叩く。
教えれば、ない線まで、見える。教えなければ、ある線も、見えない。──どちらの手も、片方を、立てれば、片方が、崩れる。
「……順番を、変える? 先に、何も告げずに、観測させて。答えは、後から」
彼女は、半ば独り言のように、呟いた。だが、言い終わる前に、自分で、首を振った。
「──いえ。それでは、"何かある"と、だけは、伝わってしまう。二度目からの目が、汚れます」
口にした案を、自分で、潰す。
短い沈黙が、あった。マリーも、事務官も、口を挟めなかった。
「……見せる前に、こちらの答えを、どこかに、隠しておいて。後で、突き合わせる。……封を、するしか」
そこまで、呟いた時。
リゼットの、目の色が、変わった。ばらばらだった条件が、一つの手順に、噛み合った、その顔だった。
「──そうです。分ければ、いいのです。予測と、観測を」
* * *
リゼットが提案した手順は、こうだった。
まず、試験の前に、こちらの予測を紙に書く。線太りの出る位置、出る条件、出ない条件。書いた紙は封筒に入れ、封紙をして、事務官が時刻を記録し、検証役自身に持っていてもらう。
検証役には何も教えない。代わりに、製図係が作った補助格子──紙面を升目で区切った透かし枠──を渡し、気づいた変化をすべて、位置と時刻つきで記録してもらう。
試験が終わってから、封筒を開ける。
予測と観測が一致すれば、期待では説明できない。
「封をした予測、ですか」
事務官が手順を書き取りながら言った。
「封紙の管理は、管理部の得意分野です」
「知っています」
リゼットは言った。
「だから成立する手順です」
事務官は、書き取る手を一瞬止め、それからとても丁寧に続きを書いた。
カミーユは手順を二度読み、頷いた。
「良い手順です。一つ足します。白紙対照と術式紙を、検証役に区別させないこと」
「どちらに線が出るかも、賭けの対象になるわけだ」
ルイスが言う。
「賭けではありません」
リゼットが訂正する。
「対照です」
「うん。そう言うと思った」
事務官が、羽ペンを置いた。
「一つ、記録外で、うかがってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「この手順は──"見る人間が、答えを知っていると、見えてしまう"という前提で組まれております。私は十九年、宮廷の書類を書いてまいりましたが、そのような考え方の書式を、一度も見たことがございません。学院のどの講義録にも、ないはずです」
事務官は、慎重に言葉を選んだ。
「……どちらで、お習いになりましたか」
小実験室が、静かになった。
カミーユが、手を止めていた。ロアンは天井を見た。ルイスだけが、面白がる目で、答えを待っていた。
「独学です」
リゼットは、まばたき一つで答えた。
「人は、期待した通りのものを見ます。それは、術式の欠陥と同じで、直せません。直せないものは、手順で避けます」
「……六歳の、お答えとしては」
「不本意ですが、年齢は条件表に載せていません」
事務官は、深く頭を下げた。頭を下げてから、自分がなぜ下げたのか分からなくなった。
ルイスは、口元を扇で隠す真似をして、笑いをこらえた。
* * *
手順は決まった。
次の問題は、その手順で本当に見えるのか、である。
「予行をします」
カミーユが言った。
「訓練されていない目に、あの線太りが見えるかどうか。検証役は魔法陣の専門家ですが、この現象は初見です」
「初見の目が、ここにあります」
リゼットが振り返った。
視線の先には、マリーがいた。
「私でございますか」
「マリーは試験を横で見てきましたが、記録紙を覗いたことはありません。線太りの位置を知りません」
「存じませんが……私、魔術師ではございません」
「目に資格は要りません」
マリーは助けを求めてルイスを見たが、ルイスは興味深そうに頷いただけだった。
予行が始まった。
マリーは補助格子を持たされ、術式紙の前に座る。ロアンが魔力を流し、光が斜めに入る。
マリーは、見た。
真剣に見た。
「……分かりません」
規定周期が終わったとき、マリーは正直に言った。
「線は、ずっと線でございました」
リゼットは落胆しなかった。記録した。
『予行一回目:未訓練観測者、変化を検出できず』
「見えないという結果が出ました。重要です」
「私の目が節穴という記録でございますか」
「違います。手順が未完成という記録です」
カミーユが補助格子を手に取った。
「比較対象がないのです。線が太くなったかどうかは、太くなる前の線と並べないと分からない。──製図係、試験前の線の写しを格子つきで取れますか」
「取れます」
製図係が答えた。
試験前に線の写しを取り、観測者の手元に置く。観測者は、目の前の線と手元の写しを見比べながら見る。
予行二回目。
マリーは写しと紙面を交互に見た。
二十周期を過ぎたあたりで、彼女の手が止まった。
そして、おそるおそる、格子の一点を指した。
「……ここ、写しより、ほんの少しだけ、太い気がいたします」
部屋が静かになった。
リゼットは封筒を開けた。予行用に書いておいた予測である。
位置は、一致していた。
「見えました」
マリーは自分の指先を見つめた。
「私に、見えました」
「見えます。手順が正しければ」
リゼットは言った。
その声は淡々としていたが、記録紙に書かれた『予行二回目:未訓練観測者、写し併用で同位置を検出』の文字は、丁寧だった。
マリーはその夜、姉に出す手紙に「私は魔法の研究に参加しています」と書き、三回読み直してから、「お茶を運んでいます」に直した。両方とも事実である。
* * *
午後は、想定問答だった。
「検証役は、確認のために嫌な質問をします」
カミーユが言った。
「練習しましょう。意地の悪い質問が得意な方はいますか」
全員が、自然にルイスを見た。
「どうして僕を見るんだ」
ルイスは心外そうに言ったが、椅子を引き、検証役の席に座った。座った瞬間、纏う空気が少しだけ変わった。
「では、シルヴァーヌ嬢。その線太りは、君の描き間違いではないのか。線を引くのは君だ。君が毎回、同じ場所をわずかに太く描けば、同じ結果になる」
「描線は試験前に写しを取り、線幅を測定しています。試行間の線幅差は測定誤差内です。記録はこちらです」
「では術者はどうだ。術者が意図的に流量を揺らせば」
「流量記録は記録水晶に残ります。術者の操作と独立に、立ち上がりから終了まで記録されます」
「記録水晶を細工していたら」
「水晶は管理部の封紙つきで保管され、開封時刻は──」
リゼットはそこで止まり、事務官を見た。
「管理部が記録しています」
事務官が即答した。
「開封の立会いも、検証役ご自身にしていただけます」
ルイスは次の質問を探し、少し考え、ふっと笑って検証役の顔をやめた。
「降参だ。穴がない」
「穴はあります」
リゼットが言った。
「再現に失敗する、という穴が」
「それは穴じゃない。結果だ」
ルイスは立ち上がりながら言った。
「穴というのは、ごまかせる場所のことだ。君の手順には、ごまかせる場所がない。失敗しても、手順は疑われない。それが今日作ったものの価値だよ」
リゼットは少しの間、その言葉を検討していた。
「……記録します」
「どこにだ」
「『検証手順の目的:成功の証明ではなく、結果の信用』」
カミーユが深く頷いた。事務官は、その一行を様式のどこに入れるべきか、真剣に悩みはじめた。
* * *
夕方、学院からの返書が届いた。
封を開けたカミーユの眉が、わずかに動く。
「決まりました。学院所属魔術師が一名、五日後に来ます」
「どなたですか」
「名前は……読み上げます。『観測検証の経験豊富な者を派遣する。当人の希望により、事前資料は条件一覧のみ受け取り、観測結果の写しは受け取らない』」
リゼットが顔を上げた。
「結果を、見ずに来るのですか」
「そう書いてあります」
期待を持たずに観測するため、結果を知らずに来る。
こちらが三日かけて組み上げた手順と、同じ発想が、返書の三行目に当然のように書かれていた。
「……良い検証役です」
リゼットは言った。
「まだ会っていません」
マリーが言う。
「会う前から分かることもあります」
夕方のまとめは、短かった。
『検証手順:封印予測・補助格子・写し併用・紙の無差別提示』
『予行:未訓練観測者で検出可能を確認』
『想定問答:主要な反論に対応済み』
『検証役:学院所属魔術師一名。五日後』
『註:評議会の期日と、同日』
『配分:三日は屋敷で予行用紙の漉き直し。残る二日で王宮にて通し予行』
『次回課題:本番条件での通し予行』
その配分を書き取りながら、事務官がふと手を止めた。
「……失礼ながら、返書のことで一つ」
「どうぞ」
「結果の写しを事前に受け取らぬ、と自分から書いてくる検証役は、私の十九年で二人目です」
「一人目は」
「同じ方かもしれません」
事務官は、それ以上言わなかった。言わなかったが、羽ペンの先で紙の端を二度叩いた。
その夜、オルテガは団長室でひとり、返書の署名欄を眺めていた。
「……あの偏屈が、まだ現役だったか」
誰にも聞こえない声だった。
魔法陣は、まだ正体を見せない。
事務官が、記録板の隅の数字を、書き換えた。
『残り、五日』
五日後に、この部屋の外の目が、初めて、それを見る。
同じ日に、評議会が、記録を閉じるかどうかを決める。
一度きりである。二度目の機会は、紙に、書かれていない。
リゼットの記録紙の隅には、いつもより少しだけ大きな字で、こう書かれていた。
『見えるものは、誰の目にも見えるはず。そうでなければ、まだ条件が足りない』




