実験室へ、行かない日
その朝、ルイスは小実験室へ行かなかった。
行けない日ではない。行かない日である。二日続けて行かないと決めたのは、ルイス自身だった。理由は、誰にも言っていない。
執務机の上には、いつも通りの報告が届いている。
『第一試行より第三試行まで、未知記号の出現なし』
『継続候補:鉱物灰色膜』
『次回課題:粒度別試験、膜厚測定』
三行である。
半月、ほとんど毎日、似たような三行が届いている。何も見つかっていない、と書いてある報告書が、毎日、律儀に届く。
ルイスはそれを読み、少しだけ口の端を動かした。
何も起きていない。それなのに、読むのが嫌ではない。
その感覚を、彼はまだ、うまく分類できていなかった。
分類できていない主を、筆頭侍従は、扉の脇から、静かに観測していた。
報告書を読む速さ。三行しかない紙を、二度読む癖。読み終えたあと、次の書類へ移るまでの、わずかな間。
(本日も、記録どおりでございます)
ギルバートは、心の中の帳面に、印を一つ置いた。
昨日、殿下は「二日は行かない」と仰った。二日は、まだ、一日目である。
なお、その一覧には、こういう項目も並んでいる。
──シルヴァーヌ嬢に対し、宮廷魔術師カミーユが「良い測定です」と述べた旨の報告があった日、殿下は当該魔術師の職歴を執務中に取り寄せられた。
──古書店主エミール・ガランからの助言が届いた日、殿下は「その老人は、信用できるのか」と三度お尋ねになった。三度とも、答えは同じであった。
──実験室の茶菓の手配は、本来、王太子の職務ではない。
ギルバートは、これを一度も口に出したことがない。
出せば、否定される。否定されれば、記録が歪む。
(公正な記録者は、黙るものでございます)
どこで覚えた流儀なのかは、彼自身にも、もう分からなかった。
* * *
「殿下。こちらを」
ギルバートが差し出したのは、革の表紙のついた一覧だった。
開く前から、中身は分かっている。婚約に関する打診の記録である。
「増えたか」
「七家になりました」
ルイスは頁をめくった。
名門の名が並んでいる。どれも由緒があり、どれも領地が広く、どれも王家に忠実だと書いてある。文面はすべて礼儀正しく、すべて似ていた。
ルイスは上から下まで読み、それから、もう一度上から読んだ。
そこに無い名前に気づいたからである。
「……シルヴァーヌ侯爵家は」
「出しておられません」
「一度も、か」
「一度も」
ルイスは一覧を閉じた。
シルヴァーヌ侯爵家の娘は、この一年、王宮へ通い詰めている。実験室を使い、宮廷魔術師団長を治具係にし、管理部の書式を作り変えている。娘を王太子に近づける機会としては、これ以上のものはない。
その家が、一枚も出していない。
「侯爵は、出し忘れているのだろうか」
「あの方は、忘れません」
ギルバートの答えは短かった。
ルイスは、革表紙の一覧を机の端へ押しやった。
押しやってから、なぜ自分が今、少し安心したのかを考えて、途中でやめた。
* * *
昼前、廊下で父に会った。
国王は書類を抱えた文官を三人従えていたが、息子を見ると、足を止めた。
「実験室の話は聞いている」
「はい」
「あの令嬢に、何を見ている」
ルイスは、少しの間、答えを探した。
王太子として答えるなら、いくらでも言える。国家防衛。宮廷魔術師団の記録。学院との関係。どれも間違いではない。
だが、どれも正確ではなかった。
「……分かりません」
国王の眉が、わずかに動いた。
「王が、分からぬと言うな」
「まだ、王ではありません」
文官の一人が、息を呑んだ音がした。
国王は、笑わなかった。しばらく息子を見下ろし、それから、乾いた声で言った。
「分からぬものを、分かったふりで片づける王よりは、ましだ」
そして、そのまま歩き去った。
ルイスは廊下に立ったまま、その背中を見送った。
同じ台詞を、自分が言ったことがある。夜会の翌日、宮廷魔術師に記録の書き方を命じた時だ。分からないものを、分かったふりで片づけるのは危険だ、と。
あれは、誰から借りた言葉だったか。
思い出すのに、時間はかからなかった。
* * *
午後、オルテガが執務室へ来た。
宮廷魔術師団長は、治具の話をしに来たのではなかった。人事の報告である。
「副団長ヴァレンの件、正式に決まりました」
ルイスは顔を上げた。
公開再現検証の日、大広間で沈黙したあの男である。あれ以来、評議会でほとんど発言していないとは聞いていた。
「降格か」
「いえ」
オルテガの答えは、短かった。
「自ら、異動を願い出ました。認められております」
「本人からか」
「本人からです。処分ではありません」
ルイスは、少しだけ眉を寄せた。
罠を仕掛け、正面から論破され、団長に裁定された男が、自分から出ていく。恥のためだと言われれば、そう聞こえる。だが、あの男は、恥で動く種類の人間ではなかった。
「異動先は」
「王宮の外です。古い遺物と、危険な術式を、適切に保全するための機関だと」
「聞いたことがないな」
「由緒は、ございます。宮廷より、古い」
オルテガは、それ以上、機関の名を言わなかった。
「一つ、申し添えます」
老人は、言うか言うまいか、一拍だけ迷った顔をした。
「あの男は、荷をまとめる前に、記録院へ寄っております。持ち出したのは──あの日の、公開再現検証の、写しです。自分が沈黙した回の、記録を」
「恥を確かめに、か」
「そう思いたいところです」
オルテガは、白い眉を下げた。
「ですが、写しは三部でした。自分の手元に置くなら、一部で足ります」
ルイスは、答えなかった。
ギルバートが、静かに口を挟む。
「先方へ、着任の照会状を出しました。三通です。返事は、一通も来ておりません」
「三通か」
「三通です」
オルテガが、白い眉の下から言った。
「あそこは、返事を出しません。出さぬことが、返事です」
執務室が、少し静かになった。
ルイスは、机の木目を指で一度だけ叩いた。
「……宮廷の外に、宮廷より古い机がある、ということか」
オルテガは、答えなかった。
答えないことも、返事だった。
* * *
夕方、もう一枚、書類が届いた。
観測部からの定例報告である。ルイスは表題を見て、いつも通り目を通した。
『魔力潮汐、周期観測に関する年次報告』
中身は、毎年ほとんど変わらない。数字と、暦と、慎重な言い回し。
ただ、末尾の一行だけが目に留まった。
『前回の魔力嵐より、六年。次期到来は、暦の上で九年から十一年の先と推定される』
『註。前回と前々回の間隔は十六年、その前は十一年。"十年に一度"は俗称であり、周期は一定でない』
ルイスはそれを読み、脇へ置いた。
置いてから、動きが止まった。
机の上に、二枚の紙が並んでいる。
一枚は、嵐が四年から六年で来ると書いてある。
もう一枚は、今日も何も見つからなかったと書いてある。
結びつく理由は、何もなかった。片方は空の話で、片方は紙と灰色の粉の話である。宮廷の誰に見せても、関係がないと答えるだろう。
それなのに。
「……なぜ、落ち着かないんだ」
ギルバートは、答えなかった。
答えを持っていなかったからである。
ルイスは、二枚の紙をしばらく見比べ、それから、片方を引き出しにしまった。
しまったのは、嵐の方だった。
* * *
その夜、二日ぶん目の報告が届いた。
『鉱物灰色膜、継続候補』
『次回課題:粒度別試験、膜厚測定』
『備考:注意、見た目で判断しない』
三行と、備考が一行。
半月かけて、あの部屋の誰も、何一つ見つけていない。使ってはいけないものが増え、疑うべきものが増え、書類が増えただけである。
それなのに、報告書だけは、毎日届く。
ルイスは、短く笑った。
笑ってから、その一枚を、机の端の革表紙の一覧の上に置いた。
婚約打診の、七家分の名前の上に、灰色の粉の報告書が乗る。
置き方に、意味はない。
──たぶん、意味はない。
「殿下」
「何だ」
「明日は、実験室へ」
ルイスは、灯りの落ちた窓の方を見た。
「行く」
二日、行かないと決めた。決めた通りに行かなかった。
それだけのことが、思ったより長かった、と彼は思った。




