埃を、払わない
古書店『星屑堂』の、夕方。
客は来ない。
この店の客は、そもそも一日に二人か三人である。そのうち一人は道を尋ねに来るだけで、もう一人は雨宿りである。
エミール・ガランは、それで困ったことがなかった。
困るほどの生活を、していない。
カランと鈍いベルが鳴ったのは、客ではなく、配達だった。
シルヴァーヌ侯爵家からの、定期の封書である。
* * *
中身は、いつもと同じだった。
屋敷付き魔術師ロアンの手による、実験記録の写し。あの娘の署名はない。署名を入れると、送る側の立場が重くなりすぎるからだと、あの家の主は考えているのだろう。
賢明である。
エミールはランプを近づけ、紙を広げた。
『光源変動方式:熱混入により保留』
『反射板揺動方式:支柱震動、戻り遅延、左右張力差』
『観測使用:不可』
『第二試作方針:遮光羽根方式』
しばらく、動かなかった。
それから、ひとつ、乾いた笑いを漏らした。
「……道具を、作りはじめおったか」
誰も聞いていない。
この店で声を出すのは、たいてい独り言である。
エミールは、老眼鏡を上げ、もう一度読み直した。
現象を追うのをやめて、現象を測るための機械を作りはじめている。しかも、その機械の誤差を測るための紙まで作っている。
六歳である。
六歳の子供が、自分の目を疑い、自分の道具を疑い、自分の紙を疑う手順を、王宮の実験室で組んでいる。
愉快だった。
愉快で、たまらなかった。
だから、笑いが止まった時、エミールは自分でも少し驚いた。
* * *
同じことをした男を、彼は一人だけ知っている。
四十年前の話である。
その男も、途中で現象を追うのをやめた。追っても捕まらないと気づいて、代わりに道具を作りはじめた。光を測る道具、紙を疑う道具、自分の手が震えているかどうかを測る道具。
周りは笑った。魔術の研究ではない、と言った。職人の仕事だ、と言った。
男は気にしなかった。
道具がそろった年に、男は、誰も届かなかったところまで届いた。
届いて、それから。
エミールは、そこで読むのをやめた。読んでいたのは紙ではなく、自分の記憶のほうだった。
彼は封書を机に置き、立ち上がった。
* * *
店の奥は、暗い。
棚が二列。その向こうに、使っていない書見台。さらに奥に、床板。
エミールは、そちらを見なかった。
正確に言えば、見ないようにして、他のところを見た。
棚の埃を払おうかと思った。思っただけで、布を取らなかった。
この店は、四十年、埃を払っていない場所がある。
払えば、そこに何かがあると、自分で認めることになる。
だから、払わない。
代わりに、彼はカウンターの奥へ回り、鍵のかかった棚を開けた。
取り出したのは、古びた革表紙の一冊である。現代表記が統一される前の研究書。蔦のように絡む曲線が、表紙に刻まれている。
去年、六歳の娘に見せた本だった。
エミールは、それをランプの下で開いた。
余白に、書き込みがある。
細かく、几帳面で、若い字だった。
自分の字である。四十年前の。
『ここは誤記』
『著者の混乱と思われる』
『体系として破綻。参考にならず』
全部、外れていた。
あの子は、同じ頁を覗き込んで、こう言った。誤記ではありません、設計です、と。
四十年である。
四十年、この老人は、この一冊を誤記だと思って眺めていた。読めなかったのではない。読める形で目の前にあったものを、自分の物差しで測って、壊れていると判定していた。
都合の悪い線を、拾わなかったのだ。
書き込みの末尾には、署名があった。
『王立学院研究員 エミール・ガラン』
その肩書きは、もうない。
名前だけが、紙の上に残っている。
エミールは本を閉じ、棚に戻し、鍵をかけた。
鍵をかける音が、思ったよりも大きかった。
カランと、ベルが鳴った。
客だった。若い男である。恋愛小説はあるか、と聞いてきた。
「入り口の右手だ」
エミールは、いつもの声で答えた。
男は礼を言い、二冊買って出ていった。
それだけである。
この店の仕事は、四十年、それだけだった。
* * *
夜。
エミールは、返信を書こうとして、羽ペンを持った。
持ったまま、しばらく動かなかった。
書くべきことは、ある。
はっきりと、ある。
──そこから先へ、行くな。
道具がそろえば、次は測れる。測れれば、次は見える。見えれば、次は、なぜそれがそこにあるのかを知りたくなる。
そして、その問いには、答えがある。
答えがあるから、危ない。
エミールは、ペン先をインクに沈め、紙の上で止めた。
止めたまま、六歳の誕生日に自分が何を書いたかを思い出した。
『答えはない。だが、問いはある。問いを消すな』
自分で書いた。
その通りに、あの子は問いを消さなかった。消さないどころか、消せない形にしはじめた。
今さら、行くなとは書けない。
書けば、四十年前に自分を黙らせた連中と、同じことをすることになる。
エミールは、目を閉じた。
* * *
結局、彼が書いたのは、一行だけだった。
『遮光材は、色ではなく、魔力反応で選ぶこと』
技術的な助言である。
それ以上のことは、何も書かなかった。
封をして、明日の便に出す箱へ入れる。
それから、ランプの火を細くした。
店が暗くなる。
立ち上がる前に、エミールは、一度だけ、店の奥を見た。
棚の向こう。書見台の向こう。
床板の、あたりを。
見て、それから、何もせずに、火を消した。
その夜も、埃は払われなかった。




