人工光は、少し正直すぎる
旧温室での共同観測から、一日が経った。
王宮魔術師団の小実験室には、朝から妙な緊張が漂っていた。机の上には、昨日と同じ非接続型の模型術式が二つ並べられている。周囲には光量計、反射板、遮光布、記録水晶、角度を測るための細い銀の定規が置かれ、部屋の隅では宮廷魔術師たちが息を潜めるように準備を進めていた。
ただし、昨日と違うものがある。
夕方の温室の光ではなく、今日は人工光だった。
「基準条件は、昨日の第二回観測に合わせます。光量、魔力出力、模型の位置関係は第二回と同じ。ただし、反射角だけは第三回観測の値に寄せます。昨日、ずれ幅が増えた条件です」
カミーユは記録板を読み上げながら、最後の一語だけ少し強くした。
「記録上は、です」
リゼットはその言い方に反論しなかった。むしろ、わずかに頷いた。
「実際に一致しているかは、試さないと分かりません」
「その理解で助かります」
カミーユは短く返した。褒めているようには聞こえないが、否定しているわけでもない。最近の彼は、リゼットを六歳児として扱うより先に、条件を乱す可能性のある観測者として扱うようになっていた。
それはそれで、かなり珍しい扱いだった。
マリーは実験室の壁際で、温かいお茶の入ったポットを抱えている。王宮の実験室に侍女長がいるのは少し場違いだが、リゼットの外出時にマリーがいない方がサイラスの胃に悪い。つまり、今日のマリーは研究補助であると同時に、侯爵家の胃痛対策でもあった。
「お嬢様。本日は布を押さえなくてもよろしいのでしょうか」
「今日は布が揺れないよう、固定具があります」
「では、私は何をすれば」
「お茶をお願いします」
「急に侍女長らしい役割が戻ってまいりました」
マリーは少しだけ安心した顔をした。だが、机の上の模型術式が淡く光を帯び始めると、その安心はすぐに薄くなる。侍女長らしい仕事に戻ったところで、場所が宮廷魔術師団の実験室である時点で、普通ではなかった。
第一回人工光観測。
人工光の魔石灯が点き、反射板に白い光が当たる。昨日の角度を再現したはずの光が、模型術式の曲線へ落ち、ロアンと宮廷魔術師が同時に魔力を流した。
光は走った。
曲線の手前でわずかに脈を打ち、そこから何事もなかったように流れ切った。
二重化は、起きなかった。
記録水晶が光を収め、鐘が二度鳴る。実験室に、思ったよりも重い沈黙が落ちた。
「不発ですね」
ロアンが静かに言った。
「不発、という言い方は少し違います。条件が足りなかった、と記録します」
カミーユはすぐに訂正した。厳しいが、顔には落胆が見える。昨日の共同観測で同時二重化を見ているだけに、人工光なら綺麗に再現できるという期待は、彼の中にもあったのだろう。
リゼットも記録板を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
期待していなかったと言えば、嘘になる。
人工光で再現できれば、次からは夕方の温室を待つ必要がない。光量も角度も固定でき、再現試験はずっと楽になる。だからこそ、何も起きなかったことが、少しだけ腹立たしかった。
「お嬢様」
マリーが小さく声をかける。
「大丈夫です。悔しいだけです」
「大丈夫の説明に、悔しいが入っております」
「矛盾はありません」
リゼットはそう答えたが、記録板を押さえる指先は、ほんの少しだけ紙の端を皺にしていた。
ルイスはその仕草を見たが、何も言わなかった。代わりに、実験台の横で腕を組んでいたオルテガに視線を向ける。
「原因は?」
「候補はいくつかございます。人工光の質、硝子反射の有無、温室内の微細な空気の揺らぎ、あるいは昨日の模型位置の再現誤差。ひとつに決めるには、まだ早すぎます」
「では、ひとつずつ潰そう」
ルイスが言うと、カミーユがすぐに記録板へ項目を書き足した。
「第二回は光量を上げます。角度は維持。第三回は光量を戻し、反射板の材質を硝子に変更。第四回は、光をわずかに揺らします」
「光を揺らす、とは」
ギルバートが眉を寄せる。
「昨日の温室では、光が完全には固定されていませんでした。遮光布の揺れは第一回の無効条件でしたが、硝子越しの夕光そのものにも細かな揺らぎがあった可能性があります」
「つまり、揺れは邪魔なだけではなかったかもしれない、ということか」
「可能性です」
カミーユは、またその言葉を使った。
第二回観測では、光量を上げた。
魔石灯は白く強くなり、模型の線は先ほどよりも明るく走った。だが、結果は同じだった。反応は整いすぎているほど整っており、二重化は起きない。
「強ければいい、ではないですね」
リゼットは記録しながら言った。
「弱すぎても強すぎてもない。光量だけでは足りない」
「同意します」
カミーユが頷く。反論ではなく同意が返ってきたことに、ロアンが少しだけ目を丸くした。
第三回では、反射板を磨いた金属から古い硝子板に変えた。
硝子板は旧温室から外された予備品で、波打つような歪みが残っている。ギルバートが運ぶ間、マリーはずっと落とさないか心配していたが、ギルバートは当然のように無傷で机の横へ置いた。護衛騎士の仕事ではない気もするが、今日の王宮には、誰の仕事か分からない作業が多すぎる。
硝子越しの人工光が模型に落ちる。
今度は、ほんの少しだけ線が揺れた。
だが、二重化には届かない。
「惜しいですね」
ロアンが呟く。
「惜しい、は記録語ではありません」
「では、反応増加傾向あり」
「それなら使えます」
カミーユは無表情で言ったが、記録板には実際にその文言を書き込んだ。
リゼットは硝子板をじっと見ていた。人工光は正直だ。光量を決めれば、その通りに照らす。角度を決めれば、その通りに反射する。だが、昨日の温室の光は、もっと不規則だった。
夕方の光、古い硝子の歪み、遮光布のわずかな揺れ、温室内の空気の流れ。邪魔だと思ったものの中に、必要な条件が混ざっているかもしれない。
「第四回、光を揺らします」
カミーユが言った。
宮廷魔術師が魔石灯の出力を一定の範囲で細かく変動させる。完全な再現ではない。むしろ、昨日の不完全さを人工的に真似るための、あまり格好よくない操作だった。
それでも、模型は反応した。
光が曲線の手前で沈み、次の瞬間、線がほんのわずかに横へぶれる。
二重化と呼ぶには薄いが、何も起きなかった第一回とは明らかに違う。
記録水晶がその揺れを拾った瞬間、カミーユが小さく息を吐いた。
「光量固定ではなく、微小変動ありの条件で反応増加。まだ二重化の再現とは言えませんが、昨日の反応に近づいています」
「人工光が悪いのではなく、人工光が正直すぎたのですね」
リゼットが言った。
その場にいた何人かが、少し妙な顔をした。
「正直すぎる、とは」
ルイスが尋ねる。
「変動が少なすぎます。人工光は、こちらが決めた光量と角度を、そのまま出します」
「それは良いことではないのか」
「通常は良いことです。ですが、昨日の温室は嘘が多かった」
その言い方に、オルテガが少しだけ眉を上げた。
「嘘、ですか」
「歪んだ硝子、夕日の揺れ、空気の流れ、布の影。どれも観測条件としては邪魔に見えますが、現象を起こすために必要な乱れが、その中に隠れていた可能性があります。人工光は正直すぎて、その乱れを全部消してしまいました」
「揺らぎまで条件に入れるのか」
「はい。面倒です」
リゼットは真顔で答えた。
マリーはそこで、ああ、今日は大きな爆発もなく終わりそうだ、と一瞬だけ思った。だが次の瞬間、リゼットが「面倒です」と言う時ほど、後で作業が増えることを思い出し、安心を取り消した。
「つまり、次は人工光を不安定にする装置を作るのですか」
オルテガの声には、かすかな疲労が混じっていた。
「不安定にするのではありません。制御された揺らぎを作ります」
「言い換えても、厄介さは減っておりません」
「精度は上がります」
リゼットは即答した。
カミーユが記録板の端に、新しい実験項目を書き込む。
『光量固定:反応なし』
『光量増加:反応なし』
『歪み硝子反射:反応増加傾向』
『微小変動光:反応増加』
『仮説:二重化は反射角だけでなく、光の揺らぎを条件に含む』
そこまで書いてから、彼は少しだけ手を止めた。
「未知記号については、今回は記録しません」
「出ていませんから」
リゼットは当然のように答えた。
「出ていないことも、重要です」
「はい。記号ではなく、条件が見えました」
ルイスは二人の会話を聞き、静かに頷いた。
昨日、旧温室で得られたものは、答えではなかった。今日もまた、答えには届いていない。それでも、分からないものの輪郭は、少しずつ粗い線で囲まれ始めている。
「次は、制御された揺らぎを作る装置か」
「はい」
リゼットは頷いた。
「ただし、設計には時間がかかります。光量、周期、反射材質を別々に変えられるようにしなければ、条件が混ざります」
「どれくらいかかる?」
「三日ください」
実験室の中に、短い沈黙が落ちた。
オルテガが額を押さえ、ロアンが遠くを見る。ギルバートは表情を変えなかったが、マリーは明らかに「三日で済む話なのでしょうか」と言いたそうな顔をしていた。
ルイスだけが、少し笑った。
「三日で設計できる、と言ったのだね」
「はい。製作は別です」
「そこは区別するのか」
「重要です」
リゼットは、記録板の端に次の課題を書き足した。
『次回課題:制御揺らぎ光源の設計』
* * *
その夜。
リゼットは、王宮の庭園に出た。
六歳の令嬢が夜に外を歩くというので、随行は多かった。マリー、ロアン、近衛が二人。そして、なぜか、王太子が一人。
「殿下は、公務では」
「終わった。……終わらせた」
風があった。
雲が、月にかかっては、外れる。庭園の敷石の上を、木々の影が、ゆっくりと横切っていく。
リゼットは、その影を、じっと見ていた。
見ながら、扇の骨を一本、指で押さえた。息を、数えている。
「……分かりました」
「何がだ」
「実験室の光が、なぜ、正直すぎるのか」
リゼットは、月を指した。
「人工光の揺らぎは、私が作った周期です。同じ幅で、同じ間隔で、正確に揺れます。ですが、本物の光は、こうです」
雲が、月を半分だけ隠した。影の縁が、いびつに滲む。
「速さが変わります。幅も変わります。止まる時間も、一定ではありません。──夜会の大広間で二重化が出たのは、揺れていたからではなく、"不規則に"揺れていたからです」
ロアンが、息を呑んだ。
マリーは、庭園の芝生の上に膝をつこうとする主人を、無言で押し留めた。押し留めながら、内心で、この一年の敗北の数を数えていた。
「……お嬢様。ドレスが」
「洗えます」
「洗える回数には、上限がございます」
ルイスは、その攻防を横目に、空を見上げた。
六歳の令嬢が、月を見て、実験の欠陥を見つけている。詩でも、恋でもなく。
それが、少しだけ、悔しかった。悔しいと思ったこと自体が、彼にとっては、初めての観測だった。
「シルヴァーヌ嬢」
「はい」
「月は、きれいだと思わないのか」
リゼットは、月を見た。
しばらく、見ていた。
「……きれいです」
少し間があって、そう答えた。
「光量が一定でないので、観測には向きません。ですが、きれいです」
ルイスは、声を出さずに笑った。
その夜、記録板に書き足された一行は、こうだった。
『訂正:揺らぎは、規則的では、いけない。──不規則さを、設計する』
矛盾した文である。
その一行は、まだ答えではない。
けれど、未知記号を追いかけるだけだった問いは、少しずつ、条件を測るための道具を必要とし始めていた。
研究は、謎を見つけるだけでは進まない。
謎を逃がさないための、面倒な道具が必要になる。
リゼットはその面倒さを見つめ、ほんの少しだけ口元を緩めた。




