旧温室、共同観測
夕刻の王宮外苑は、昼間の華やかさを少しだけ失っていた。
庭園の奥にある旧温室は、今では公式な園遊会にも使われていない。古い硝子板はところどころ波打ち、鉄枠には蔦が絡み、床の石畳には薄く苔が残っている。だが、魔法陣の観測場所として見るなら、ここは意外なほど条件がよかった。
王宮の研究室ほど閉じておらず、シルヴァーヌ侯爵邸ほど、どちらか一方の持ち場でもない。そして何より、夕方の光がゆっくり傾いていく。
リゼットは温室の入口で足を止め、硝子越しに差し込む光の角度を見上げた。
「反射が多いですね」
「綺麗ですね、ではないのか」
隣に立つサイラスが、もう半ば諦めた声で言った。
「綺麗かどうかは観測条件に含めません」
「お前が言うと、庭師が少し泣きそうだな」
サイラスはそう言いながら、娘の視線が温室の奥へ逸れたことに気づいた。そこには古い暖房用の魔法陣が刻まれた石台があり、現在は使われていないとはいえ、五歳の頃から魔法陣を見ると呼吸が整う娘にとっては、どう見ても危険な餌だった。
「見るな」
「まだ見ていません」
「まだ、という言葉を使うな」
マリーはそのやり取りを聞きながら、黒い遮光布を抱えて温室の柱へ向かった。侍女長として求められる技能に、王宮旧温室での光量調整が含まれていた記憶はない。ないはずなのに、最近は少し手慣れてきている自分がいて、それが一番悲しかった。
「お嬢様。こちらの布は、どの程度まで閉じればよろしいでしょうか」
「右側は半分でお願いします。完全に閉じると、硝子反射の影響が消えすぎます」
「温室なのに暗幕を張り、暗くしすぎてもいけないのでございますね」
「はい。面倒です」
「その面倒を、なぜお嬢様は少し楽しそうにおっしゃるのでしょう」
「分からない条件があるからです」
マリーは返事をやめ、そっと胃のあたりを押さえた。
温室の中央には、長い作業台が置かれていた。片側にはシルヴァーヌ家で作った模型術式。もう片側には、宮廷魔術師団が王宮側の資料をもとに組み直した模型術式。どちらも、未知補助線らしき曲線を含む非接続型の写しである。
模型そのものには触れず、出力は最小に抑える。記録水晶は双方のものを二つずつ置き、時刻合わせ用の小さな鐘を同時に鳴らす。
派手な実験とは言いがたかった。けれど、リゼットにとっては、これまでのどの読書よりも胸の奥が落ち着かない準備だった。
やがて、王太子ルイスが護衛のギルバート、宮廷魔術師オルテガ、そしてカミーユを連れて温室に入ってきた。
「待たせたね」
「問題ありません。光の角度は、むしろ今からが適しています」
「挨拶より条件確認か」
ルイスは苦笑したが、不快そうではなかった。ギルバートは温室全体を見回し、人の出入り口と窓の位置を確認している。オルテガは台の上の模型に視線を落とし、カミーユは持参した記録板を開いた。
「始める前に、棄却条件を確認します」
カミーユの声は固かったが、以前のように年齢だけで切り捨てる響きはなかった。
「開始後は模型に触れない。観測者は反応を見ても、最初の記録が終わるまで発言しない。片方の模型だけに反応が出た場合、まず模型作成誤差を疑う。両方に反応が出ても時刻がずれた場合、光源または環境条件の差を疑う。同時に出た場合でも、それは意味の証明ではなく、同条件での同反応として扱う。よろしいですか」
リゼットは、ほとんど間を置かずに頷いた。
「妥当です」
「……反論しないのですか」
「反論する理由がありません。意味と反応を分けるのは、正しいです」
カミーユは少しだけ眉を動かした。六歳の令嬢に同意されることに、まだ慣れていない顔だった。
「では、第一回観測を開始します」
オルテガが小さな鐘を鳴らした。
ロアンと宮廷魔術師が、それぞれの模型に同じ量の魔力を流す。紙の上を淡い青白い光が走り、曲線の手前で一度だけ脈を打つ。リゼットは息を止めそうになったが、記録前に声を出さないという条件を思い出し、唇を結んだ。
先に反応したのは、王宮側の模型だった。
光が横にずれ、ほんの一瞬、線が二重に見えた。だが、隣のシルヴァーヌ側の模型はわずかに遅れて明滅しただけで、二重化と呼べるほどの反応にはならなかった。
鐘が二度鳴り、記録終了が告げられる。
「不一致ですね」
リゼットが言うより先に、カミーユが温室の右側を見た。
「今の回は無効にするべきです。遮光布が揺れました」
「布、でございますか」
マリーがびくりと肩を跳ねさせる。
「責めているわけではありません。右側の硝子反射が、シルヴァーヌ側の模型にだけ遅れて入りました。光源条件が一致していません」
カミーユは淡々と言った。言い方は冷たいが、指摘は正確だった。
リゼットは記録板に『第一回、環境条件不一致。遮光布揺れ。無効』と書き込む。失敗という文字を使わなかったのは、慰めではない。観測として扱うなら、これは失敗ではなく、条件の発見だった。
「布を固定します。マリー、下側に重りを」
「承知いたしました。侍女長の仕事が、日に日に研究補助へ寄っております」
「屋敷の方は」
「副侍女長に、八割ほど預けてまいりました。あれは優秀です。……ただ、先日、廊下の床に描かれた模型図の撤去について、判断を仰ぐ手紙が届きました」
「あれは撤去しないでください。比較用です」
「そう返しました。返した翌日に、"では絨毯を敷いてもよいか"と、二通目が参りました」
「敷いてかまいません。ただし端は折らないように」
「三通目が来る予感がいたします」
「助かっています」
「その一言で倒れずに済みます」
マリーは真剣な顔で布の裾を固定した。サイラスはその横で、娘が古い暖房陣へ近づかないよう、さりげなく立ち位置を変える。護衛としてはギルバートの方が専門だが、魔法陣から娘を守る役目だけは父親の領分だった。
第二回観測では、反応はよりきれいに揃った。
鐘の音と同時に魔力が流れ、二つの模型の光が曲線の手前でわずかに沈む。次の瞬間、線が紙の上から半歩ずれたように見え、重なった光が薄い影を作った。
王宮側とシルヴァーヌ側の反応は、ほぼ同時だった。
しかし、未知記号らしき形は現れなかった。
記録終了後、誰もすぐには口を開かなかった。ルールを守ったからではなく、全員が同じものを見たかどうか、まず自分の目を疑っていたからだ。
「二重化は同時発生、と記録できます」
カミーユが言った。
「ただし、未知記号の出現は確認できません。第二回は、あくまで二重化現象の共同観測です」
「はい」
リゼットは素直に頷いた。嬉しいかと問われれば、嬉しい。だが、気持ち悪さはまったく減っていない。むしろ、同じ条件で同じようにずれたのに、知りたいものだけが出ないことの方がずっと不愉快だった。
「もう一回、条件を少しだけ変えます」
リゼットは作業台の端に置いていた反射板を見た。
「光量は変えず、反射の角度だけを下げます。前回、未知記号様反応が出た時は、光が上からではなく横から入っていました」
「角度変更は一条件のみですか」
カミーユが確認する。
「はい。ほかは変えません」
「ならば、試す価値はあります。ただし、反応が出ても角度条件によるものとしか言えません」
「それが分かれば十分です」
ルイスは二人の会話を聞きながら、少しだけ目を細めた。片方は六歳の令嬢で、片方は宮廷魔術師団の懐疑派である。年齢も立場も違う二人が、同じ作業台の上で、同じ不明点に向かって言葉を選んでいる。その光景は、王宮の会議室で交わされるどんな報告よりも奇妙で、同時に健全だった。
第三回観測では、反射板の角度だけを下げた。遮光布を固定し直し、記録水晶の時刻を合わせ、鐘の音に合わせて魔力を流す。
光は、今度も二重化した。
ただし、第二回とは見え方が違った。線のずれは大きくなったが、持続時間は短い。曲線の先に何かが浮かびかけることもなく、光は薄い影だけを残して消えた。
記録水晶が淡く光を収め、鐘が二度鳴る。温室の中には、期待が外れた時の小さな沈黙が残った。
「未知記号様反応は、出ていませんね」
オルテガが低く言った。
カミーユは記録水晶を確認し、眉間に皺を寄せた。
「出ていません。ただし、二重化の幅は第二回より増えています。反射角を変えたことで、現象そのものの強度が変化した可能性があります」
「角度依存、ですか」
ロアンが言った。
「可能性です。光量は変えていないので、現時点では反射角条件として扱うべきでしょう」
カミーユの言葉に、ロアンは苦笑しながらも頷いた。
「厳しいですね」
「厳しくしなければ、後で条件を取り違えます」
その一言で、温室の空気が少し変わった。
六歳の令嬢の見間違い、異端学者の思い込み、侯爵家の誇張。そう呼ばれないためには、出た、見た、似ている、では足りない。足りないことを誰よりも理解しているからこそ、カミーユは派手な解釈より、まず条件の切り分けにこだわっていた。
簡単に否定されない形へ、現象を押し込もうとしている。
リゼットは記録板に、ゆっくり文字を書いた。
『第三回観測』
『二重化、同時発生』
『反射角変更により、ずれ幅増加』
『未知記号様反応、なし』
『共同観測番号、一』
最後の行を書いた時、カミーユが視線を上げた。
「番号をつけるのですか」
「はい。意味が分からないものに、名前をつけるのは早いです。けれど、同条件で起きた反応には番号が必要です」
「……それなら、妥当です」
カミーユが小さく息を吐いた。認めたというより、棄却し損ねた顔だった。
ルイスは作業台の上の二つの模型を見た。
「これは、結論ではないね」
「はい」
リゼットは即答した。
「ですが、同じ条件で、同じ机の上に置いた二つの模型が、同じ方向にずれました。意味は分かりません。けれど、条件は一つ確定しました」
サイラスはその言葉を聞き、娘の横顔を見た。
嬉しそうではある。
だが、無邪気な成功の顔ではない。分からないものが増えた時の顔であり、同時に、分からないまま扱う手順を一つ手に入れた顔でもあった。
「今日はここまでにしよう」
ルイスが言った。
「これ以上続けると、光の角度が変わりすぎる。次は、同じ条件を人工光で再現できるかを考えるべきだ」
「賛成です」
リゼットは名残惜しそうに模型を見たが、手は伸ばさなかった。伸ばさなかったことに、マリーが小さく感動している。感動の基準がだいぶ低くなっている自覚はあったが、今日のマリーはそれを気にしないことにした。
旧温室の硝子の向こうで、夕日がさらに低くなっていく。
その日、世界の秘密は明らかにならなかった。未知記号の意味も、二重化の正体も、誰ひとり説明できていない。
ただ、ひとつだけ変わったことがある。リゼットだけが見ていた問いは、王宮側の模型とシルヴァーヌ側の模型の間に置かれ、同じ光の下で、同じように揺れた。
それは答えではない。けれど、答えに向かうための、初めての共同観測だった。




