差分比較、記号が浮かぶ
翌朝、シルヴァーヌ侯爵邸の小さな実験室には、二枚の模型図が並べられていた。
一枚は、リゼットたちが作った屋敷照明陣の低出力模型。
もう一枚は、王宮側から届いた小規模模型の写し。
同じものを参考にしているはずなのに、二つの図は微妙に違っていた。線の太さ、補助線の曲がり方、未知補助線に似た曲線の接続位置。大人が見れば誤差で済ませる程度の差かもしれない。
だが、リゼットはその「誤差」をじっと見ていた。
「ここです」
リゼットは王宮模型の写しを指した。
「王宮側の模型では、未知補助線に似た曲線の終端が、主線に直接触れていません。わずかに離れています」
ロアンが目を細める。
「本当ですね。こちらの模型では接続させています」
「なぜ、向こうは離したのでしょう」
マリーが尋ねると、リゼットは少し考えた。
「王宮側が間違えた可能性があります」
「それは問題では」
「ですが、二重化が出たのは王宮側です」
部屋が静かになった。
間違えた模型の方で、現象が出た。
それは、かなり気持ち悪い事実だった。
「つまり」
ロアンが言う。
「向こうの誤差が、偶然にも条件を満たした可能性がある」
「はい」
リゼットは頷いた。
「誤差ではなく、必要な隙間だった可能性もあります」
* * *
そのころ王宮の小解析室でも、同じ差分比較が行われていた。
作業台には、シルヴァーヌ家から届いた低出力模型の写しと、王宮側で作った再構成模型が並んでいる。カミーユは二つの図を見比べながら、何度も定規を置き直していた。
「終端が離れています」
彼は言った。
オルテガが覗き込む。
「王宮側の模型か」
「はい。シルヴァーヌ家の写しでは接続しています。こちらで再構成した際、線の重なりを避けるため、私がわずかに離しました」
「つまり、お前の判断か」
「はい」
カミーユは逃げなかった。
「誤差です。少なくとも、そのつもりでした」
ギルバートは黙って記録している。
オルテガはカミーユを責めなかった。むしろ、少し楽しそうですらあった。
「では、その誤差を試す価値があるな」
「同意します」
カミーユは即答した。
「接続型、非接続型、中間型の三種を作ります。二重化が非接続型だけで起きるなら、隙間が条件の一つになります。三種すべてで起きるなら、他の条件が主因です」
「よい」
オルテガは頷いた。
「今日はお前が指揮を取れ」
カミーユは一瞬だけ目を見開いた。
「私が、ですか」
「この誤差はお前が作った。なら、その意味を最後まで追え」
若い魔術師は、深く息を吸った。
「承知しました」
その声には、疑いと緊張と、少しだけの高揚が混じっていた。
* * *
三種類の模型が作られた。
接続型。
非接続型。
中間型。
通常光源では、どれも大きな変化を示さなかった。魔力流量を八割に落とし、魔石灯を三つに増やし、反射板を二枚置き、遮光板を動かす。昨日と同じ条件を再現する。
まず、接続型。
光は揺れたが、二重化までは起きない。
次に、中間型。
一度だけ、線が薄く重なりかけた。しかし、三回連続では出なかった。
最後に、非接続型。
光が走った。
影が横切った。
未知補助線に似た曲線の終端、そのわずかな隙間で、光が横にずれた。
同じ線が薄く重なる。
一回目。
二回目。
三回目。
すべて、二重化した。
「非接続型のみ、三回連続」
記録係の声が、少し震えていた。
カミーユは頷いた。
「隙間が条件に含まれます」
「なぜだ」
オルテガが問う。
「分かりません」
カミーユは即答した。
だが、そこで終わらせなかった。
「ただし、接続している場合は魔力が主線へ逃げます。非接続の場合、曲線の終端に魔力が滞留する。その滞留が、複数光源と移動影による観測条件と重なった時だけ、二重化に見える可能性があります」
「見える、か」
「はい。現象そのものが実在するのか、観測条件による見え方なのかは、まだ分けられません」
オルテガは満足そうに頷いた。
「よい。分からないものを、分けておる」
* * *
シルヴァーヌ侯爵邸でも、同じ三種類の模型が作られていた。
リゼットは王宮からの中間報告を待たず、独自に接続型、非接続型、中間型を用意していた。ロアンは魔力計を構え、マリーは念のため窓を開けている。
「なぜ窓を」
リゼットが尋ねた。
「何か光った時、すぐ換気できるようにでございます」
「光は換気できません」
「気持ちの問題でございます」
リゼットは少しだけ納得できない顔をしたが、実験を優先した。
接続型。
二重化なし。
中間型。
光が揺れるが、再現せず。
非接続型。
魔力流量八割。簡易反射板二枚。マリーが持つ白い布を、移動影の代わりにゆっくり横切らせる。
「私が影役なのですね」
「もっと一定速度でお願いします」
「侍女長に求められる技能の範囲を超えております」
ロアンが小さく笑い、魔力を流した。
光が走る。
白い布の影が模型の上を横切る。
未知補助線に似た曲線の終端で、光が二重に重なった。
そして、一瞬だけ。
曲線の内側に、小さな記号が浮かんだ。
リゼットの手が止まった。
ロアンも、マリーも動かなかった。
記号はすぐ消えた。
だが、リゼットは見ていた。
かつて屋敷の図書室で、模型術式を試した時に現れた、計算上存在しない記号。
それと、似ている。
完全には同じではない。
けれど、同じ系統の匂いがした。
「……出ました」
リゼットが呟いた。
「二重化ですか」
ロアンが尋ねる。
「それもです」
「それも?」
リゼットは、震えないように注意しながら、羊皮紙に記号を書き写した。
「未知記号です」
マリーが、白い布を持ったまま固まった。
「お嬢様。今、とても聞きたくない単語が聞こえました」
「私も、とても見たかった単語です」
「単語ではございません」
いつものやり取りだった。
だが、リゼットの目はいつもよりずっと真剣だった。
* * *
同じ時刻、王宮側でも三回目の非接続型試験が行われていた。
光が二重に重なる。
記録係が水晶板を確認する。
「……何か、出ました」
カミーユが顔を上げた。
「二重線か」
「いえ。線ではありません。記号のようなものです」
小解析室の空気が凍った。
カミーユは水晶板を覗き込む。
残像は薄い。完全な形ではない。だが、曲線の内側に、小さな記号らしきものがある。
彼はすぐに紙へ写した。
「断定はしません」
カミーユは言った。
「残像の欠けかもしれない。記録水晶の反応遅れかもしれない。ですが、二重線とは別の反応が出ています」
オルテガは低く唸った。
「記録しろ」
「表現は」
記録係が尋ねる。
カミーユは少し考えた。
「未知記号様反応。ただし、形状不完全。再試行必要」
その言葉を書き取る羽根ペンの音だけが、部屋に響いた。
* * *
夕方、王宮とシルヴァーヌ侯爵家の間で、二通の報告がすれ違った。
王宮からは、非接続型で未知記号様反応が出たという報告。
シルヴァーヌ家からは、同じく非接続型で未知記号を観測したという報告。
どちらも、断定はしていない。
どちらも、完全な形ではない。
だが、二つの場所で、同じ条件に近い模型から、似た反応が出た。
サイラスは報告を読み終え、深く息を吐いた。
「リゼット」
「はい」
「これは、かなり大きいな」
「はい」
リゼットは頷いた。
「ですが、まだ答えではありません」
「分かっている」
「むしろ、分からないことが増えました」
「お前は少し嬉しそうだな」
リゼットは一瞬だけ黙った。
「はい」
今度は、素直に認めた。
「分からないものが、同じ条件で二箇所に出ました。これは、とても気持ち悪くて、とても面白いです」
サイラスは笑うしかなかった。
マリーは胃薬の小瓶を開けた。
ロアンは記録紙を見つめたまま、静かに言った。
「次は、王宮模型とこちらの模型を同じ場所で比較する必要がありますね」
部屋の空気が、少し変わった。
同じ場所。
つまり、どちらかが移動する必要がある。
リゼットは、何も言わなかった。
だが、その目はもう、次の観測場所を見ていた。
問いは、二つの場所で同時に光った。
次に必要なのは、その光を同じ机の上に並べることだった。




