王宮側、模型を組む
王宮の小解析室は、朝から普段と違う空気に包まれていた。
中央の作業台には、白い石板が一枚置かれている。その上には、屋敷照明陣を参考にした小規模模型が描かれていた。照明陣そのものではない。シルヴァーヌ侯爵家から提供された簡略資料をもとに、王宮側で再構成した検証用の模型である。
作業台の周囲には、宮廷魔術師団長オルテガ、若い魔術師カミーユ、記録係、そして筆頭侍従ギルバートが立っていた。
ルイスは同席していない。
ただし、結果はすべて彼のもとへ届く。
「では始めるか」
オルテガが言うと、カミーユはすぐに手を上げた。
「その前に、棄却条件を決めておくべきです」
室内の視線が、若い魔術師に集まる。
以前のカミーユなら、「六歳の令嬢の見間違いでしょう」と言って終わっていたかもしれない。だが、シルヴァーヌ家の回答書と、昨日の大広間での公開検証の記録を読んだ後では、その言い方だけでは足りない。
彼は机の上に、三つの条件を書いた紙を置いた。
『一、通常光源で二重化が起きないこと』
『二、角度を変えても同様であること』
『三、魔力流量を変えても未知補助線付近に特異な揺れが出ないこと』
「この三条件を満たせば、少なくとも屋敷照明陣の簡略模型においては、二重化仮説を棄却できます」
ギルバートが、わずかに目を細めた。
「棄却、ですか」
「はい。否定ではありません。検証可能な範囲で、仮説を退けるという意味です」
オルテガは、少しだけ満足そうに頷いた。
「よい。懐疑とは、本来そういうものじゃ。ただ疑うだけなら、酒場の老人にもできる」
カミーユは少し顔を引き締めた。
「私は、あの令嬢の観測を信じているわけではありません。検証の場にいたわけでも、この目で見たわけでも、ありませんから」
「それでよい」
オルテガは白い眉を動かした。
「信じる必要はない。確かめればよい」
* * *
最初の試験は、通常光源で行われた。
作業台の上には、小さな魔石灯が一つ置かれている。光量は王宮廊下で使われる標準値。魔力流量も通常。観測角度は正面。
カミーユが模型に魔力を流すと、石板の上に淡い光が走った。
主線が光り、補助線が追随し、最後に未知補助線に似た曲線の近くで、ほんのわずかな揺れが出る。
だが、それだけだった。
「二重化なし」
記録係が書き留める。
カミーユは、表情を変えなかった。
「角度を変えます」
魔石灯の位置を少しずつずらし、観測板を斜めに置く。右から、左から、上から。光が当たるたび、石板の線は表情を変えるが、二重化と呼べる現象は出ない。
「二重化なし。揺れは通常範囲」
記録係の声が続く。
ギルバートは、内心で小さく唸った。
大広間では、出た。評議会の目の前で、何度も、だ。だが、模型では、出ない。このまま何も起きなければ、"正式な検証対象"という裁定だけが、条件の分からないまま、宙に浮く。
宙に浮いた裁定は、政治の道具にされやすい。
ただし。
ルイスが気にしているのは、おそらく、そこではない。
* * *
三度目の試験で、カミーユは魔力流量を下げた。
「なぜ下げる」
オルテガが尋ねる。
「夜会中の王宮大広間は、複数の照明陣が同時に稼働していました。個々の照明陣への流量が、標準値よりわずかに下がっていた可能性があります」
「ふむ」
「リゼット嬢の回答では、観測時の光量は未測定です。ならば、通常値だけで棄却するのは不十分です」
オルテガは目を細めた。
カミーユは、ただ否定したいだけではない。
否定するためにも、条件を詰めている。
それは、研究者として正しい姿勢だった。
魔力流量を八割に落とす。
模型の光は少し弱くなった。主線の立ち上がりが遅れ、補助線の光が追いつくまでにわずかな間が生じる。
未知補助線に似た曲線の近くで、光が揺れた。
今度は、少し長い。
「……揺れが増えました」
記録係が言う。
「二重化か」
オルテガの声が低くなる。
カミーユはすぐに首を振った。
「違います。まだ二重化ではありません。通常の遅延でも説明できます」
「なら、記録は」
「特異揺れ未満。流量低下時に揺れ増加、としてください」
記録係が慌てて書き直す。
ギルバートは、カミーユを見た。
若い魔術師の額には、うっすら汗が浮かんでいる。
彼は悔しがっているのではない。むしろ、怖がっている。自分の棄却条件の内側に、説明しきれないものが入り込み始めたことを理解しているのだ。
* * *
次に、光源を増やした。
魔石灯を一つ、二つ、三つ。角度を変え、反射板を置き、人影の代わりに薄い遮光板をゆっくり動かす。
小解析室は、急に実験場らしくなった。
記録係が光量を読み上げ、カミーユが魔力流量を調整し、オルテガが模型の線を見つめる。ギルバートは壁際で、一言も口を挟まずにその様子を記録していた。
紙の上の議論ではない。
光が走り、影が動き、魔力計の針が揺れる。
そして、遮光板が二つの魔石灯の間を横切った瞬間。
石板の上で、光が横にずれた。
一瞬だけ、未知補助線の近くに、同じ線が薄く重なって見えた。
「止めろ」
カミーユが鋭く言った。
記録係の手が止まる。
オルテガも息を詰めた。
「今のを、二重化と記録するな」
カミーユは早口で続けた。
「反射板の影響かもしれません。遮光板の角度もずれていた。再試行します」
彼は手を震わせていなかった。
だが、声は少し硬かった。
再試行。
同じ条件を整える。魔石灯三つ。流量八割。反射板二枚。遮光板を同じ速度で動かす。
光が走る。
影が横切る。
未知補助線の近くで、また光が薄く重なった。
「……再現」
記録係が呟いた。
「まだだ」
カミーユが言う。
「三回連続で起きなければ、偶然を排除できません」
オルテガは何も言わなかった。
三回目。
同じ条件で、また光が重なった。
誰も声を出さなかった。
重なった光はすぐ消えた。だが、記録係の水晶板には、二重の線の残像が薄く残っている。
カミーユは、水晶板を見たまま動かなかった。
「……棄却できません」
ようやく、そう言った。
それは敗北宣言ではなかった。
優秀な懐疑派が、自分の決めた条件に従って、仮説を退けられないと認めた言葉だった。
* * *
昼過ぎ、ルイスの執務室に中間報告が届けられた。
ギルバートが読み上げる。
『屋敷照明陣簡略模型において、特定条件下で二重化に類する現象を確認』
『条件:魔力流量八割、複数光源、反射板二枚、移動影あり』
『三回連続で類似反応』
『第三試行にて二重線の残像を記録』
『カミーユ魔術師の所見:現時点で錯覚仮説のみでは説明困難』
ルイスは黙って聞いていた。
報告が終わった後も、しばらく口を開かなかった。
「殿下」
ギルバートが声をかける。
「大広間で見たものが、模型でも出た」
「そのようでございます」
「つまり、あれは大広間の飾りや、燭台の癖ではない。陣そのものに、何かがある」
「はい」
ルイスは報告書を手に取った。
そこには、カミーユの署名がある。
懐疑派の署名。
それは、リゼットやエミールの署名とは違う重みを持っていた。
「面白いな」
ルイスは小さく言った。
「信じた者の証言より、疑った者の記録の方が、時に強い」
ギルバートは答えなかった。
その通りだと思ったからだ。
* * *
同じころ、シルヴァーヌ侯爵邸では、リゼットが低出力模型の前で首を傾げていた。
こちらの模型では、まだ二重化が再現できていない。
王宮側が同じような模型を組んでいることは知らない。追加照会に出す簡略資料を整えながら、リゼットは何度も条件を変えていた。
「お嬢様。休憩を」
マリーが言う。
「あと一回だけ」
「その言葉は三回目です」
「では、あと一回だけを訂正します。あと、条件一つだけ」
「悪化しております」
ロアンが魔力計を見ながら苦笑した。
「お嬢様。王宮側に送る資料には、こちらで再現できていないことも書きますか」
「書きます」
リゼットは即答した。
「王宮側が再現できたとしても、こちらで再現できなければ条件差が出ます。王宮側が再現できなければ、こちらの未再現記録も必要です」
「正しいですね」
「正しいですが、気持ち悪いです」
リゼットは紙に書いた。
『シルヴァーヌ家側低出力模型、現時点で二重化再現せず』
その文字は、少しだけ強い。
マリーは、それを横から見て思った。
お嬢様は、失敗を嫌がっている。
けれど、失敗を隠さなくなった。
それはたぶん、すごく大事な変化なのだろう。
* * *
夕方、王宮からの使者が到着した。
サイラスが受け取った封書には、王太子付き筆頭侍従ギルバートの署名がある。中には、王宮側の小規模模型試験の簡潔な結果が入っていた。
サイラスは読み終え、思わず額を押さえた。
「リゼット」
「はい」
「王宮側で、二重化に類する現象が出たらしい」
リゼットの手が止まった。
マリーも、ロアンも、同時に顔を上げる。
「条件は」
リゼットが尋ねた。
驚きより先に、条件だった。
サイラスは、もうそこには突っ込まなかった。
「魔力流量八割、複数光源、反射板二枚、移動影あり。三回連続。三回目に二重線の残像を記録」
リゼットは、静かに息を吸った。
「こちらでは再現できていません」
「そうだな」
「つまり、模型の差、光源の差、または王宮側の再構成に含まれる何かが影響しています」
「喜ばないのか」
サイラスが聞く。
リゼットは少し黙った。
「嬉しいです」
それから、机の上の未再現記録を見た。
「ですが、こちらで再現できないので、気持ち悪いです」
サイラスは小さく笑った。
娘らしい答えだった。
リゼットは新しい紙を引き寄せ、王宮側の条件を書き写す。
そして最後に、一行加えた。
『次段階:王宮模型とシルヴァーヌ家模型の差分比較』
問いは、紙の上から石板の上へ移った。
そして今度は、二つの場所で同時に光り始めていた。




