三つの質問状
王宮からの質問状が届いたのは、夕方の鐘が鳴る少し前だった。
シルヴァーヌ侯爵邸の書斎では、サイラスが封書を開き、リゼット、ロアン、マリーがその前に並んでいた。エミールは帰宅していたため、この場にはいない。
封書は厚くない。
だが、手紙を読むサイラスの表情は、単なる礼状を読む時のものではなかった。
「王宮からの照会だ」
サイラスが言った。
「照会」
リゼットの目が、ほんの少しだけ明るくなる。
「承認ではないぞ」
「分かっています」
「招待でもない」
「分かっています」
「王宮へ行ってよい、という意味でもない」
「……分かっています」
ほんのわずかに間が空いた。
マリーはその間を聞き逃さなかった。
「お嬢様。今、少しだけ王宮へ行く可能性を計算なさいましたね」
「可能性を検討することと、実行することは違います」
「検討しないでいただきたいです」
サイラスは咳払いをし、手紙を机の上に置いた。
質問は三つ。
一つ、王宮大広間での観測位置。
二つ、光源条件の詳細。
三つ、屋敷照明陣と王宮照明陣の類似点、および相違点。
どれも、リゼットの報告書を読んでいなければ出ない問いだった。
「読まれましたね」
リゼットが小さく言った。
「少なくとも、流し読みではない」
ロアンが頷く。
「良いことなのでしょうか」
マリーがおそるおそる尋ねた。
「良いことでもあり、面倒なことでもある」
サイラスは手紙を見たまま答えた。
「向こうが質問してきた以上、こちらの回答は記録に残る。雑なことは書けない」
「雑には書きません」
「長すぎても駄目だ」
リゼットは黙った。
サイラスは娘を見た。
「リゼット」
「はい」
「何ページで答えるつもりだった」
「質問が三つなので、最低十二ページです」
「四ページにしなさい」
「情報量が不足します」
「不足させなさい。必要なら向こうが追加で聞いてくる」
リゼットは、しばらく考えた。
そして不満そうに頷いた。
「分かりました。本文四ページ、別紙六ページ」
「本文四ページだけだ」
「別紙は存在を示すだけで」
「本文四ページだけだ」
マリーは心の中で、旦那様が強い、と拍手した。
* * *
だが、その和やかさは。
サイラスが、封書の中に、もう一枚、紙が入っているのに気づいた瞬間、消えた。
「……三つの質問状とは、別だ」
サイラスの声が、低くなった。彼は、その一枚を、ゆっくりと、読み上げた。
『魔術評議会立会いのもと、王宮大広間にて、公開再現検証を実施する』
『シルヴァーヌ嬢は、当該未知現象を、その場で再現すること』
『再現された場合、宮廷魔術師団は正式な調査を開始する』
『再現されなかった場合、本件は以後、正式に退け、参考記録としても保存しない』
『併せて、参考署名者エミール・ガランの見解も、記録より抹消する』
書斎が、静まり返った。
「……罠です」
リゼットが、静かに、言った。
「私は、報告書に、書きました。この現象は、夜間・複数光源・移動影という、特定の条件でしか、再現しない、と。それを、昼間の、静かな大広間で、評議会が、じっと見守る中、再現しろ、と言っています。──条件が、揃いません。まず、再現しません」
サイラスが、通達の末尾の署名を指した。
「これを、書いたのは、魔術評議会、副団長。ヴァレン殿だ」
ロアンの、眉が、寄った。
「……あの方ですか。団長のオルテガ殿は、公正で、通っています。ですが、副団長は、違う。新しいものを、頭ごなしに、退けることで、評議会の、古い秩序を、守ってきた人です」
「その人が」
リゼットは、通達を、もう一度、読んだ。
「わざわざ、"昼間の、静かな大広間"を、指定しています。──私の報告書の、"夜間・複数光源・移動影でしか現れない"という一文を、読んだ、その上で。いちばん、その条件を、欠いた場を、選んでいる。条件が、揃わなければ、何も、現れない。現れなければ、"無かった"ことに、できる。この人は、私の書いた"条件依存"を、そっくり、逆手に、取ったつもりでいます」
「厄介な、相手だな」
「ええ。ですが」
リゼットの、目が、細くなった。
「逆手を、取ったつもりの人ほど。自分が、どちらの手を、握っているか、見えていないものです」
「では、断れば」
「断れば、"逃げた"ことになります。再現できなければ、"無かった"ことになります。どちらでも、握り潰される」
ロアンの、顔が、こわばった。
「しかも、失敗すれば、エミール殿の名まで、抹消される」
エミールの署名の、その一行を、リゼットは、見つめた。
自分の問いだけなら、まだいい。だが、この罠は、同じ問いを見てくれた、あの老人まで、道連れにしようとしている。
「……許せません」
リゼットの声は、静かだった。だが、その奥に、これまでにない、熱があった。
「この罠を、作った人は、一つ、見落としています。私が書いた、"条件でしか再現しない"という、その一文。──あれは、弱みではありません。使い方さえ間違えなければ、いちばんの、武器になります」
サイラスが、娘を、見た。
「勝算が、あるのか」
「まだ、ありません」
リゼットは、正直に、答えた。それから、羽根ペンを、握り直した。
「ですが、まず、三つの質問に、完璧に答えます。回答が甘ければ、検証の前に、潰されます。──盤をひっくり返すのは、その、後です」
* * *
回答書の作成は、すぐに始まった。
リゼットは最初の質問、王宮大広間での観測位置から整理した。夜会中に立っていた場所、ダンス中に見えた角度、東側柱との距離、シャンデリアの位置、壁面装飾の反射。
そこまではよかった。
問題は、リゼットがそのすべてを図面にしようとしたことである。
「お嬢様。王宮の大広間を、記憶だけでここまで描いてよろしいのでしょうか」
マリーが震える声で聞いた。
「正確ではありません。推定図です」
「推定でこの精度なのが怖いのでございます」
ロアンは横から覗き込み、苦笑した。
「柱の配置は、おそらく合っています。ただ、王宮側に送るなら、あまり断定的に描かない方がよいでしょう」
「なぜですか」
「王宮の内部構造を、侯爵令嬢が細かく記録しているように見えるからです」
リゼットは手を止めた。
「不審ですか」
「かなり」
「では、簡略図にします」
リゼットは即座に線を減らした。
前なら、正確な方がよいと言い張っていたかもしれない。だが、今は違う。正確さと信用は、いつも同じ方向を向くわけではない。
それも、最近学んだことだった。
* * *
二つ目の質問は、光源条件だった。
シャンデリア、壁面反射、宝石装飾、移動する人影。リゼットはそれぞれを分けて書き出し、観測時の不確定要素として整理した。
「ここは、少し弱いですね」
リゼットは自分で書いた文を見て言った。
「弱いとは」
サイラスが尋ねる。
「光源条件の記録が、記憶に依存しています。夜会中に正式な測定器を持っていたわけではありません」
「普通は夜会に測定器を持ち込まない」
「次回は小型の」
「持ち込まない」
即答だった。
マリーが深く頷いた。
ロアンは少し考え、机の上に置かれた模型用の紙を指した。
「では、回答では推定と明記しましょう。観測時の光量は未測定。再現には夜間、複数光源、移動影の条件が必要、と」
「はい」
リゼットはその通りに書き直した。
分からないところを、分からないと書く。
それは悔しい。
けれど、書かなければ、後で全部が弱くなる。
リゼットは羽根ペンを少し強く握ったが、紙は破らなかった。
マリーはそれを見て、今日のお嬢様はかなり偉い、と心の中で評価を一段上げた。
* * *
三つ目の質問が、いちばん難しかった。
屋敷照明陣と王宮照明陣の類似点、および相違点。
類似点は書ける。
未知補助線に似た曲線構造。特定角度での光のずれ。既存補修線とは違う接続の癖。
だが、相違点も多い。
屋敷の照明陣は規模が小さい。王宮の照明陣は装飾や反射が複雑で、結界補助陣との距離も近い。そもそも、王宮側では未知構造を再現できていない。
「同じものとは断定できません」
リゼットは言った。
ロアンが頷く。
「その一文は必ず入れるべきです」
「入れます」
「その上で、類似点だけを整理する」
「はい」
サイラスは黙って見ていた。
以前のリゼットなら、似ているなら同じ系統です、と言い切ったかもしれない。だが今は、似ていることと同じであることの間に、きちんと線を引こうとしている。
それは成長だった。
ただし、六歳児の成長としては方向が特殊すぎる。
「お父様」
「何だ」
「顔が複雑です」
「複雑にもなる」
「理由は」
「娘の成長を喜ぶ父親と、六歳児が王宮への回答書を書いている現実を受け止めきれない領主が、私の中で衝突している」
リゼットは少し考えた。
「処理負荷が高いのですね」
「そうだ」
「休憩しますか」
「お前が休憩しなさい」
会話はそこで終わった。
* * *
夜になるころ、回答書は四ページに収まった。
正確には、四ページと半分だった。
サイラスは半分を見つめた。
リゼットは何も言わない。
マリーも何も言わない。
ロアンは窓の外を見ている。
「……半ページ削りなさい」
サイラスが言った。
「重要な部分です」
「どこだ」
「観測角度の補足です」
「図で分かる」
「文字でも」
「図で分かる」
リゼットは少し悩んだ末、補足を削った。
その代わり、図の下に小さく一行だけ加える。
『角度条件は推定。再観測時に要測定』
サイラスはそれを読んで、頷いた。
「よし」
「通りますか」
「少なくとも、読まれる形にはなった」
読まれる形。
それは、正しい形とは違う。
だが、今のリゼットには必要な形だった。
マリーがそっとお茶を置いた。
「お嬢様。今日はもう、これ以上は」
「はい。今日はここまでにします」
マリーは一瞬、動きを止めた。
「……本当に?」
「はい。明日、父上が確認してから送るべきです」
「お嬢様が、順番を守っておられます」
「順番を守らないと、観測条件が乱れます」
「理由はともかく、ありがたいことでございます」
リゼットは不思議そうに首を傾げたが、反論はしなかった。
* * *
その夜、リゼットは自室に戻ってから、机の引き出しを開けた。
中には、かつて屋敷の図書室で、模型術式を試した際に現れた未知記号を書き写した紙が入っている。
屋敷、用水路、王都、王宮。
場所は違い、条件も違い、形も完全には一致しない。
それでも、どこかに同じ癖がある。
リゼットは紙を一枚取り出し、今日の回答書には入れなかった仮説を、欄外に小さく書いた。
『未知補助線は、単一の欠陥ではなく、複数環境で現れる共通のずれかもしれない』
まだ証明ではなく、報告書にも書けない。けれど、この一行こそが、公開検証で、盤をひっくり返す、鍵になる。
リゼットは、その予感を、抱いていた。
彼女は、羽根ペンを、置いた。だが、灯りは、消さなかった。
机の上には、二枚の紙が、並んでいる。
一枚は、明日、王宮へ送る、四ページの回答書。
もう一枚は、あの、公開再現検証の、通達。
──失敗するように、仕組まれた、試験。
昼間の、静かな大広間で、条件を、揃えさせてもらえないまま、再現しろと迫られる。普通に挑めば、まず、負ける。エミールの名ごと、消される。
「……再現、しなくていい」
リゼットは、灯りの下で、ぽつりと、呟いた。
その瞳は、負けを覚悟した者の目では、なかった。むしろ、獲物の急所を、見つけた者の目だった。
「向こうは、"再現できなければ負け"の盤を、作ったつもりでいる。──なら、その盤ごと、こちらの土俵に、引きずり込む。失敗を、私の、勝ちに、変える」
窓の外は、まだ、暗い。
公開検証の日まで、あと、三日だった。




