王太子、参考記録を読む
翌朝、シルヴァーヌ侯爵家から王宮へ、一通の封書が届けられた。
封蝋には侯爵家の紋章。宛先は王太子付き筆頭侍従ギルバート。差出人はサイラス・ド・シルヴァーヌ侯爵である。
中身は、八ページの比較報告書だった。
分厚くはない。王宮に送る資料としては、むしろ控えめな量だ。だが、ギルバートは封を切る前から、妙な重さを感じていた。
紙の厚みではない。
昨夜から続いている、あの六歳の令嬢の問いの重さだった。
「殿下。シルヴァーヌ侯爵家より、例の資料が届いております」
朝の執務を終えたルイスは、差し出された封書を見て、すぐには手を伸ばさなかった。
「早かったな」
「侯爵閣下の確認印がございます。屋敷付き魔術師ロアン殿の署名、エミール・ガラン殿の参考署名も添えられております」
「エミール・ガランか」
ルイスは小さく呟いた。
その名を聞くだけで、宮廷魔術師の何人かは眉をひそめるだろう。古い術式体系にこだわる異端の老魔法師。そういう評価が、王宮には根強く残っている。
だが、評価と事実は同じではない。
ルイスは封書を受け取った。
「読む。ギルバート、オルテガにも同席させろ」
「よろしいのですか」
「一人で読めば、俺の好奇心になる。宮廷魔術師団長と読めば、記録になる」
ギルバートは一礼した。
その言い方もまた、少しだけ、あの令嬢に似ていた。
* * *
半刻後、王宮の小執務室には、ルイス、ギルバート、宮廷魔術師団長オルテガの三人が集まっていた。
机の上に広げられた報告書の表題は、堅かった。
『未再現現象の、公開再現条件について』
オルテガは題名を一読し、白い眉を少し上げた。
「証明報告ではないのですな」
「本人も、証明ではないと言っていた」
ルイスが答える。
「では、何の報告で」
「観測条件だ」
ルイスは一ページ目をめくった。
そこには、屋敷照明陣、第一用水路、王都街灯、王宮大広間の観測記録が並べられていた。各項目には、観測者、時間帯、光源、魔力量、既存補修線の有無、再現の可否が整理されている。
派手な断定はない。
王宮の魔法陣が壊れている、とも書いていない。
ただ、「似た曲線構造」「二重化に類する視覚的ずれ」「再現不能条件」という言葉が、淡々と並んでいた。
オルテガは、読み進めるうちに少し黙った。
「……よく整理されている」
ギルバートが目を動かした。
「団長殿」
「認めたわけではない。ただ、六歳の子どもの落書きではない、というだけじゃ」
オルテガは少し不機嫌そうに言った。
だが、その目は報告書から離れていない。
ルイスは二ページ目に視線を落とした。
『王宮側通常点検では未知構造を確認できず』
『点検時刻:午前』
『観測時刻:夜会中』
『光源条件:シャンデリア、壁面反射、宝石装飾、複数人の移動影』
『仮説:角度、反射、魔力流量、観測位置の差が再現失敗に影響した可能性』
ルイスは、そこを指で軽く押さえた。
「自分の観測だけを正しいとは書いていない」
「むしろ、こちらが再現できなかった理由を探しておる」
オルテガが低く言う。
その声には、少しだけ厄介なものを見つけた者の響きがあった。
「団長は、どう見る」
「慎重に見るべきですな」
「否定ではなく」
「否定するには、材料が足りません。肯定するにも、材料が足りません」
「つまり、保留か」
「ええ。実に面倒な保留です」
ルイスは、ほんの少しだけ笑った。
面倒。
それは、消してよい問いではないという意味でもある。
* * *
同じころ、シルヴァーヌ侯爵邸では、リゼットが窓際の机で別の紙に向かっていた。
報告書はすでに送った。ならば、普通の令嬢なら返事を待つところだろう。
リゼットは待たなかった。
待っている時間に、次の観測条件表を作っていた。
「お嬢様。王宮からのお返事は、早くても数日はかかると思われます」
マリーが茶を置きながら言う。
「はい」
「ですので、その間くらいは少しお休みになっても」
「返事を待つ時間と、条件表を整理する時間は両立します」
「両立しないでいただきたいです」
マリーは小さく息を吐いた。
机の上には、新しい表がある。
『再観測案』
『夜間』
『複数光源』
『観測角度三種』
『魔力流量:通常、低下、上昇』
『観測者:リゼット、ロアン、第三者』
マリーは、最後の項目で眉を寄せた。
「第三者とは、どなたでございますか」
「未定です。私とロアンだけでは、観測者の偏りが消えません」
「旦那様では」
「父上は魔術師ではありません」
「私は」
「マリーは胃の保護を優先してください」
「お嬢様が原因でございます」
リゼットは否定しなかった。
否定できなかった、とも言う。
そのとき、扉が軽く叩かれた。入ってきたのはロアンである。
「お嬢様。王宮へ送った報告書の控えを読みました」
「誤記がありましたか」
「いえ。むしろ、誤記が少なすぎて怖いくらいです。ただ、一点だけ」
ロアンは机の上の再観測案を見た。
「第三者を入れるなら、王宮側の人間が望ましいでしょう。こちら側だけで再現しても、向こうは納得しません」
「同意します」
「ただし、それは王宮側が観測に協力する場合です」
「協力しない可能性も高いです」
「はい」
リゼットは少し黙った。
以前なら、では直接行きます、と言っていたかもしれない。王宮へ行けば確認できる。王太子に頼めば早い。そう考えたかもしれない。
だが、今は違う。
急ぎすぎれば、観測ではなく騒ぎになる。
「では、こちらから追加要求は出しません」
ロアンがわずかに驚いた顔をした。
「よろしいのですか」
「はい。まずは王宮側が、報告書をどう扱うかを観測します」
マリーが小さく拍手しそうになり、途中で止めた。
お嬢様が、王宮へ突撃しない。
それだけで、今日もかなり大きな成果だった。
* * *
王宮では、報告書の最後のページが開かれていた。
そこには、エミール・ガランの参考署名と、その下に短い注記があった。
『本報告は未知構造の存在証明ではなく、未再現現象の条件整理である』
『断定には追加観測を要する』
オルテガは、その一文をしばらく見つめていた。
「この老いぼれめ」
「団長」
ギルバートが思わず声をかける。
「失礼。昔を思い出しただけじゃ」
オルテガは咳払いをした。
エミール・ガランは、宮廷では異端扱いされている。だが、若いころの彼の論文を読んだことがある者なら知っている。あの老人は、主流から外れてはいても、問いの立て方だけは鋭かった。
今回の報告書にも、それがある。
答えではない。
問いの形がある。
「殿下」
オルテガは、報告書を閉じた。
「現時点で、王宮結界や照明陣に異常があるとは申し上げられません」
「分かっている」
「しかし、この報告書をただの子どもの妄想として処理することも、私は勧めません」
ギルバートの羽根ペンが止まった。
ルイスは表情を変えなかったが、目だけが少し鋭くなる。
「理由は」
「再現失敗を、失敗として記録しているからです。自分に都合の悪い条件まで並べている。これは、嘘を押し通そうとする者の書き方ではありません」
ルイスは頷いた。
それは、昨夜ルイスが感じた印象と同じだった。
「では、次はどうする」
「こちらから質問状を送るのがよろしいかと。召喚ではなく、照会です。観測条件について、追加で確認したい点を三つほど」
「三つ」
「多すぎれば、こちらが本気で食いついたと見られます。少なすぎれば、検証になりません」
ルイスは少し考えた。
「よし。質問状を作れ。ただし、相手は六歳の令嬢ではなく、シルヴァーヌ侯爵家宛てにする」
「承知しました」
「それと」
ルイスは報告書に視線を落とした。
「年齢を理由に軽く扱うな、とは書かなくていい」
ギルバートが顔を上げた。
「よろしいのですか」
「書けば、こちらが気にしていると伝わる」
ルイスは小さく息を吐いた。
「記録で返す。それで十分だ」
* * *
オルテガが、質問状の草案を、まとめ始めた、その時。
執務室の扉が、ノックもなく、開いた。
入ってきたのは、副団長ヴァレンだった。
「団長。差し出がましいようですが」
彼は丁寧に頭を下げてから、しかし有無を言わさぬ調子で続けた。
「照会で往復書簡を続けるおつもりですか。相手は、六歳の令嬢と、異端の老魔術師です。手紙を重ねるほど、宮廷が真剣に取り合っていると周りに伝わります。──それは、いかがなものかと」
「では、どうしろと」
「決着を、つけましょう」
ヴァレンは、微笑んだ。穏やかで、それゆえに、冷たい笑みだった。
「公開の、再現検証です。魔術評議会の、立会いのもと。あの令嬢に、王宮大広間で、その"未知の現象"とやらを、再現してもらう。──再現できれば、正式に、調べます。できなければ」
彼は、一度、言葉を、切った。
「二度と、この話は、蒸し返さない。異端の署名ごと、正式に、退ける。それで、皆が、納得します」
ルイスが、静かに、ヴァレンを見た。
「……ずいぶん、公平そうな、言い方だな」
「公平です、殿下」
ヴァレンは、涼しく、答えた。
だが、ルイスは、気づいていた。そして、オルテガも。
その"公平"には、罠がある。
* * *
ヴァレンが、去った後。
オルテガが、低く、唸った。
「……上手いことを、言いおる。あの令嬢は、自分の報告書で、こう書いておる。"この現象は、夜間・複数光源・移動影という、特定の条件でしか、再現しない"、とな」
「つまり」
ルイスが、目を、細めた。
「昼間の、静かな大広間で、評議会が見守る中、再現しろと言われれば」
「まず、再現せん」
オルテガは、頷いた。
「条件が、揃わんからな。だが、評議会の前で、一度でも、再現に失敗すれば。連中は、こう言う。"やはり、無かったのだ"、と。──あの副団長は、令嬢自身が書いた、"条件依存"という正直な一文を、そのまま、罠に、変えおった」
ルイスは、しばらく、黙っていた。
好奇心で、始めた話だった。だが、もう、そういう段階では、なくなっていた。
六歳の令嬢の、正直な問いが。今、宮廷の政治の、盤上に、引きずり出されようとしている。しかも、負けが、仕込まれた盤に。
「……ギルバート」
「はい」
「シルヴァーヌ侯爵家に、伝えろ。三つの質問状と──公開再現検証の、通達を」
ルイスの声は、静かだった。
「あの令嬢が、この盤を、どうひっくり返すか。──見せてもらう」




