参考記録という壁
王宮からの使者が帰った後、シルヴァーヌ侯爵邸の書斎には、サイラス、ロアン、そしてエミール・ガランが集まっていた。
机の上には、王宮からの手紙。その一文が、部屋の空気を、少しだけ重くしていた。
『比較資料を提出される場合は、侯爵閣下確認後、参考記録として受領可』
「参考記録、か」
エミールは、古びた杖の先で、床を軽く叩いた。
「ずいぶん、丁寧な棚上げじゃな」
「棚上げですか」
リゼットが、問い返す。
「受け取らぬとは言わん。だが、認めるとも言わん。宮廷が好んで使う、便利な箱じゃ。中に入れておけば、捨てたことにはならん。──そして、二度と、開けられることもない」
* * *
「ですが」
リゼットは、その箱を、素直には、受け取らなかった。
「棚上げなら、まだ、ましです。問題は、棚に上げてくれるとも、限らないことです」
エミールの、白い眉が、動いた。
「ほう」
「私の報告書は、王宮の魔法陣に、未知の欠陥があるかもしれない、と言っています。もし、それが本当なら、困る人が、います。四百年、王宮の陣を、管理してきた人たちです」
リゼットは、静かに、続けた。
「その人たちに、とって。私の報告書は、"参考記録"では、済みません。自分たちの、四百年の、否定になる。──だから、棚に上げるのではなく、無かったことに、したいはずです」
書斎が、静まり返った。
サイラスが、低く、唸った。
「……つまり、こちらが思うより、敵意を持って、扱われる可能性がある、と」
「はい」
エミールが、ふっと、笑った。だが、その笑みには、苦いものが、混じっていた。
「賢いのう、お嬢さん。そして、正しい。──そういう時、連中は、いちばん弱いところを、突いてくる」
彼は、報告書の、最後のページを、指した。
そこには、彼自身の、参考署名があった。
「わしの、名じゃ」
* * *
「エミール・ガランは、宮廷では、異端じゃ」
老魔術師は、淡々と、言った。
「古い術式体系に、こだわり続けた、変わり者。そういう評価が、こびりついておる。連中は、こう言うじゃろう。──"異端の老いぼれが署名した報告書など、信用に値しない"、とな」
「先生の署名を、外しますか」
ロアンが、慎重に、尋ねた。
「それは、しません」
答えたのは、リゼットだった。即答だった。
「先生の名は、色眼鏡を増やすかもしれません。ですが、外せば、私が、先生を、切り捨てたことになります。それは──連中の、思う壺です」
エミールが、少し、目を、見開いた。
それから、声を立てて、笑った。
「参ったな。六歳に、庇われるとは」
「庇っては、いません。合理的な判断です」
「そういうことに、しておこう」
* * *
その、危惧は。
同じころ、王宮で、正確に、形を取り始めていた。
宮廷魔術師団の一室。副団長ヴァレンが、団長オルテガの前に、立っていた。
「団長。あの報告書が届く前に、方針を、決めておくべきです」
「方針、とは」
「正式に、退ける。参考記録としても、残さない。──あれは、宮廷の権威に、関わります」
オルテガは、白い眉を、動かさなかった。
「殿下は、保留とおっしゃった」
「殿下は、お若い。我々が、お守りせねば」
ヴァレンの声は、丁寧だった。だが、譲る気配は、なかった。
「団長。お考えください。六歳の令嬢の、未再現の観測を、真面目に扱えば、どうなるか。王宮の陣に、欠陥があるかもしれない、という話が、宮廷に、広まります。四百年、それを管理してきた、我々の、失態として」
「事実なら、失態も、認めるべきじゃろう」
「事実では、ありません」
ヴァレンは、静かに、断言した。
「再現、できなかった。それが、答えです。加えて、あの報告書には、エミール・ガランの署名がある。異端の老魔術師です。──署名者が異端、観測者が六歳、現象は再現不能。三つ、揃っています。退けるのに、十分な、材料です」
オルテガは、しばらく、黙っていた。
「……お前は、現象を、見てから、言っておるのか。それとも、見る前から、無いことにしたいのか」
ヴァレンの、目が、わずかに、細くなった。
「私は、宮廷の、秩序を、守っているだけです」
その答えは。
オルテガの問いへの、答えには、なっていなかった。
* * *
夕方、シルヴァーヌ侯爵邸。
リゼットは、報告書の構成を、書き直していた。
最初は、「未知構造の存在を、示す」報告書だった。だが、今は、違う。
「目的を、変えます」
彼女は、羽根ペンを、走らせながら、言った。
「連中を、信じさせる報告書では、勝てません。信じる、信じないは、相手の胸ひとつ。棚に上げるも、握り潰すも、向こうの自由です。──ですから、"信じる"を、争点から、外します」
「外して、どうする」
サイラスが、尋ねた。
「"再現できるか、できないか"だけの、話にします」
リゼットは、顔を、上げた。その薄紫の瞳に、静かな、火が、あった。
「信じるかどうかは、主観です。ですが、"同じ条件で、再現するか"は、事実です。主観なら、握り潰せます。ですが、事実は──公の場で、条件を揃えて、試せば、誰にも、消せません」
サイラスは、娘を、見つめた。
この子は、棚上げの箱から、逃げようとしているのではない。
箱を、開けさせようと、している。
「危険な、賭けだぞ」
「はい」
リゼットは、頷いた。
「ですが、黙って棚に上げられれば、問いは、無かったことになります。それだけは、いちばん、避けたい」
彼女は、報告書の、表題を、書き換えた。
『未再現現象の、公開再現条件について』
参考記録という、生ぬるい壁。
その壁の、向こう側へ。
六歳の少女は、自分から、扉を、叩こうとしていた。
それが、握り潰そうとする者を、正面から、引きずり出す、唯一の道だと、知りながら。




