宮廷魔術師、再現できない
翌朝。
シルヴァーヌ家の朝は、約束通りに始まった。
「明日、書きましょうね」と言った侍女長は、翌朝いちばんに机の支度を済ませていた。言った本人が、いちばん覚えていたのである。
リゼットは、昨夜の計画書を開いた。
『王太子ルイス接触計画:将来検討』
『必要準備期間:数年』
実績を積み、信用を作り、それから接触する。
順序は、正しかったはずだった。
リゼットはペンを取り、その横に短く書き足す。
『実績:未達』
『接触:発生済み』
『原因:相手からの接近。想定外』
(順序が逆になりました)
計画としては、失敗である。
だが、結果としては、数年ぶんの前倒しである。
リゼットは少し考えて、もう一行足した。
『前提条件を、後から満たす』
準備の足りないまま扉が開いた。
それは面倒で、危険で、そして、圧倒的に早い。
「……悪くありません」
「お顔が、こわいです」
「機嫌が良いのです」
「存じております。それがこわいのでございます」
* * *
同じ頃。
王宮の大広間は、昨夜の華やかさが嘘のように静かだった。
音楽も、ドレスの衣擦れも、貴族たちの笑い声もない。あるのは磨かれた床と、整えられた柱と、朝の光を受けて静かに輝くシャンデリアだけである。
そして、その中央に宮廷魔術師が二人立っていた。
「東側柱の通常点検、でございますか」
年配の宮廷魔術師が、筆頭侍従ギルバートに確認した。
「はい。殿下のご指示です」
「夜会の翌朝に」
「はい」
「何か異常でも?」
「通常点検です」
ギルバートは、王宮の侍従らしい涼しい顔で答えた。何も言っていない。けれど、何かある。
宮廷魔術師たちは互いに目を合わせた。
王宮で「通常」とわざわざ強調される点検は、だいたい通常ではない。
* * *
少し離れた場所で、ルイスは大広間を見ていた。
表向きには、ただ朝の見回りに立ち寄っただけである。だが、その視線は昨夜リゼットが見ていた東側の柱から離れなかった。
柱の装飾。王家の紋章。花と蔓の彫り。
ルイスには、そこに特別な線は見えない。ただの美しい柱だ。
(本当に、何かあるのか)
六歳の令嬢の見間違いかもしれない。光の反射かもしれない。古い補修線を、彼女が深読みしただけかもしれない。
どれでもあり得る。
だからこそ確認する。分からないものを、分かったふりで片づけないために。
* * *
宮廷魔術師たちは、柱の周囲を丁寧に調べ始めた。
目視、魔力計、表層反応、結界補助陣の通常流路。作業は手際よく、さすが王宮付きの専門家と言うべきものだった。
だが、一通り確認した後、年配の魔術師は首を傾げた。
「特段の異常は見当たりません」
ルイスは表情を変えなかった。
「そうか」
「古い補修線はいくつかあります。ですが、王宮では珍しくありません。歴代の補修記録と照合すれば、おおむね説明がつくかと」
「未知の線は」
魔術師は、少し困ったように笑った。
「未知、と申しますと」
「現行の基礎書では説明できない曲線」
「……どなたがそのようなことを?」
ギルバートが小さく咳をした。
ルイスは答えなかった。魔術師も察したのか、それ以上は聞かなかった。
「少なくとも、我々の目視と魔力計では確認できません」
「階段上部の照明陣は」
「そちらも確認いたしました。光の揺れは、水晶の屈折によるものと思われます」
「思われる」
ルイスが繰り返すと、魔術師はわずかに眉を動かした。
「断定には、分解点検が必要です。ただ、夜会場の照明陣を分解するほどの異常は、現時点では確認されておりません」
「つまり」
「再現できませんでした」
大広間に、短い沈黙が落ちた。
ルイスは柱を見た。再現できない。ならば、証明ではない。リゼット自身も、そう言っていた。
「分かった」
ルイスは頷いた。
「記録に残せ。ただし、異常なしとだけ書くな」
魔術師が顔を上げる。
「と、申しますと」
「東側柱および階段上部照明陣を点検。通常範囲内。未知構造は確認できず。追加点検の必要性は低い。ただし、古い補修線が複数存在する」
ルイスはそこで一度切った。
「そのまま書け」
魔術師は、少しだけ目を見開いた。
「確認できず、でよろしいのですか」
「確認できないことと、存在しないことは違う」
年配の魔術師は、ほんのわずかに口元を固くした。
「……六歳のご令嬢の観測を、そこまで扱われますか」
「年齢で結論を決めるな」
ルイスの声は荒くなかった。だが、そこで話を終わらせる硬さがあった。
ギルバートが、わずかにルイスを見た。
その言い方は、昨夜の令嬢に少し似ていた。
* * *
同じころ、シルヴァーヌ侯爵邸では、マリーがリゼットの部屋の前に立っていた。
手には朝食。心には警戒。
昨夜の帰り道、リゼットは馬車で眠った。だからといって安心はできない。起きた瞬間に報告書を書き始める可能性が高い。とても高い。
「お嬢様。失礼いたします」
扉を開けると、リゼットは机に向かっていた。
やはり。
「おはようございます、マリー」
「おはようございます。お嬢様」
机の上には羊皮紙が数枚あった。ただし、山ではない。八ページでもない。
並んでいるのは、見出しだけだった。
『比較報告書・構成案』
『一、屋敷照明陣』
『二、第一用水路』
『三、王都街灯』
『四、王宮大広間』
『五、再現失敗記録』
『六、未証明事項』
マリーは、少しだけ安心した。
「まだ本文ではないのですね」
「はい。父上が先に読むと言いましたので、構成だけです」
「旦那様の命が守られております」
「命?」
「こちらの話でございます」
マリーは朝食を置いた。
「お嬢様。まず食べてくださいませ」
「この項目だけ」
「食べてくださいませ」
「再現失敗記録の位置が」
「食べてくださいませ」
リゼットは少し考えた。
「分かりました。食べながら考えます」
「食べるだけにしてくださいませ」
「難易度が高いです」
「朝食の難易度ではございません」
* * *
朝食後、サイラスが部屋に来た。昨夜の夜会で十分に疲れたのか、まだ少し眠そうである。
「リゼット」
「はい、お父様」
「報告書は」
「構成案だけです」
「よろしい」
サイラスは羊皮紙を手に取り、読み進めるうちに眉を動かした。
「改善案がないな」
「ありません」
「本当に書かないのか」
「はい。現時点では、未知補助線に触るべきではありません」
「王太子殿下が興味を示しても」
「関係ありません」
即答だった。
サイラスは、娘をじっと見た。
「殿下が興味を持ったことと、現象が正しいことは別です」
「……そうだな」
「むしろ、王宮側で再現できなければ、報告書の扱いは弱くなります」
「その可能性も考えているのか」
「はい」
リゼットは小さく頷いた。
「学院でも再現されませんでした。王宮でも再現されない可能性は高いです」
「それでも出すのか」
「はい。再現できなかった、という記録も必要です」
サイラスは、ゆっくり息を吐いた。
この娘は、成功だけを求めていない。失敗の置き場所を考えている。それは少し安心できることだった。
同時に、六歳にしてはやはり怖い。
「分かった。昼までに私が確認する」
「ありがとうございます」
「ただし、今日は王宮へ行かない」
「行きません」
マリーが目を見開いた。
「お嬢様が、ご自分から……?」
「王宮側の確認が先です。こちらから行っても観測条件が乱れます」
マリーは胸を押さえた。
今日は本当に記念日かもしれない。
* * *
昼前、王宮からシルヴァーヌ侯爵家へ短い使者が届いた。
宛先はサイラス。差出人は王太子付き筆頭侍従ギルバート。内容は簡潔だった。
『昨夜ご令嬢より言及のあった件につき、王宮側で通常点検を実施』
『現時点で、未知構造と断定し得る反応は確認できず』
『古い補修線は複数確認』
『当該観測については、宮廷魔術師側に慎重意見あり』
『比較資料を提出される場合は、侯爵閣下確認後、参考記録として受領可』
サイラスは手紙を読み終えた。マリーは横で固まっている。リゼットは、静かに頷いた。
「再現できませんでしたか」
「そのようだ」
「提出を求めているというより、受け取ってもよい、という文面ですね」
「そう読めるな」
「宮廷魔術師側に慎重意見あり」
リゼットは、その一文を見つめた。
「慎重、というより懐疑です」
サイラスは否定しなかった。
「想定内です」
声は落ち着いていた。
だが、サイラスは見逃さなかった。リゼットの指先が、羊皮紙の端をほんの少しだけ強く押さえた。
悔しいのだ。
たぶん。
「リゼット」
「はい」
「残念か」
リゼットは少し黙った。
「……少し」
それだけ言った。
マリーは何も言わなかった。サイラスも、すぐには言葉を重ねなかった。
六歳の娘は、感情を制御できる。だが、指先までは完全には制御できていない。
「では、報告書にはそれも入れます」
リゼットは言った。
「王宮側通常点検では再現できず、と」
「書けるか」
「書きます。再現できなかったことを隠すと、報告書の価値が下がります」
サイラスは小さく頷いた。
「よろしい」
リゼットは羊皮紙を一枚引き寄せ、見出しを書く。
『王宮側通常点検における未再現記録』
その文字は、少しだけ強かった。
悔しさは証明にならない。けれど、記録にはなる。
リゼットは、それを知っていた。
* * *
同じころ、王宮の一室では、別の男が、同じ点検記録を、まったく違う目で読んでいた。
宮廷魔術師団副団長、ヴァレン。
団長オルテガより二十は若く、現行基礎書の権威として、宮廷では名の通った男である。彼は、東側柱の点検記録の、たった一行を、指で押さえていた。
『未知構造は確認できず』
「確認できず、ではない」
ヴァレンは、静かに言った。
「存在しなかった、だ。──団長は、なぜ、そう書かせない」
部下が、口ごもる。
「殿下のご指示で、確認できず、と」
「殿下は、お若い。六歳の令嬢の、絵空事に、興味を持たれただけだ」
ヴァレンは、記録を、机に置いた。その手つきは、丁寧で、それゆえに、冷たかった。
「考えてもみろ。王宮の照明陣、結界補助陣。それを四百年、管理してきたのは、我々、宮廷魔術師団だ。その我々が、見落とした未知の欠陥を、六歳の子どもが、夜会で、一目で見抜いた。──もし、それが、認められたら」
彼は、部下を、見た。
「我々は、四百年、何を、していたことになる」
部下は、答えられなかった。
ヴァレンの、静かな目の奥に、あるものを、見たからだ。それは、真実への懐疑では、なかった。真実が、都合が悪いという、確信だった。
「あの報告書が、王宮に届いたら。参考記録などという、生ぬるい箱には、入れさせん」
ヴァレンは、立ち上がった。
「握り潰す。子どもの妄想と、異端の老魔術師の署名ごと。──宮廷の秩序のために」




