王太子、再現性を問う
夜会が終わりに近づくころ。
ルイス・アルベール・エランテは、いつも通りに王太子の仕事をこなしていた。
貴族の挨拶を受け、令嬢のドレスを褒め、領地の収穫報告に相槌を打つ。国王の横では、必要な場面に必要な笑みを置く。
それは、何度も繰り返してきた夜会の作法だった。
ただし今夜だけは、頭の片隅にひとつの問いが残り続けている。
シルヴァーヌ侯爵家のリゼット嬢は、何を見ていたのか。
柱の装飾の奥にあると言った未知の線。屋敷の照明陣。第一用水路。王都の街灯。そして、王宮の大広間。
六歳の令嬢が並べた言葉は、社交辞令にはほど遠かった。だからこそ、気になった。
(欠陥だとは言わなかった)
ルイスは、果実水のグラスを手にしたまま考える。
(危険だとも言わなかった。分からない、と言った)
子供の思いつきなら、もっと派手に言う。大人の気を引きたいなら、もっと大げさにする。家の利益を狙うなら、もっと分かりやすく売り込む。
リゼットは、そのどれもしなかった。
だから、余計に厄介だった。
「殿下」
筆頭侍従が近づく。
「そろそろ退室のお時間でございます」
「分かった」
ルイスは頷き、最後に一度だけ大広間を見た。
東側の柱。そこにはもう、リゼットはいない。彼女は侍女とともに、茶の置かれた場所へ移動していた。
観測をやめたのだろう。
条件が悪いから。たぶん、それが理由だ。
(本当に、変わっている)
ルイスはそう思いながら、王太子としての笑みを保ったまま大広間を後にした。
* * *
その夜。
王宮の自室で、ルイスは上着を脱ぎ、椅子に座った。
部屋には筆頭侍従だけが残っている。寝る前の確認事項を終えれば、今日の仕事は終わる。
いつもなら。
「先ほどのシルヴァーヌ侯爵家の令嬢について」
ルイスが言うと、侍従はすぐに顔を上げた。
「調べますか」
「家の素性は簡単でいい。シルヴァーヌ侯爵は堅実な人物だ。妙な政治的工作をする家ではない」
「では、令嬢本人を」
「それも、噂を集めすぎるな。余計な騒ぎになる」
侍従は少し考えた。
「では、何を確認なさいますか」
ルイスは短く答えた。
「再現性だ」
侍従が瞬きをした。
「再現性、でございますか」
「彼女は、あの場で自分の見たものを証明だとは言わなかった。ならば、まず確認すべきは、他の者にも同じものが見えるかどうかだ」
「宮廷魔術師を呼びますか」
「今すぐではない。明日、東側の柱と階段上部の照明陣を、通常点検の名目で確認させろ」
「異常があると公表しますか」
「するな」
ルイスの声は静かだった。
「異常があるかどうかも分からない。分からないものを、先に政治にするな」
侍従は、少しだけ驚いた顔をした。
「殿下が、そのようにおっしゃるとは」
「あの令嬢の言い方が移ったのかもしれない」
ルイスは苦笑しかけ、すぐに表情を整えた。
笑うには、まだ早い。これは面白い話ではなく、王宮の術式に関わる話かもしれない。そして、何もない話かもしれない。
その両方を、同時に扱う必要がある。
* * *
ルイスは机に向かい、白い紙を一枚取った。
まだ正式な命令書ではない。自分の考えを整理するためのメモだ。
『確認事項』
一、東側柱の結界補助陣。
二、階段上部の照明陣。
三、目視での異常有無。
四、魔力計での微細な揺れ。
五、通常補修線との違い。
そこまで書いて、手が止まる。
書きながら、別の可能性が、頭の隅にあった。
(──工作、という線は)
王宮の柱に、正体の分からない線がある。それを外部の人間が先に見つけた。順序として、望ましくない。何者かが結界へ手を入れた痕跡なら、これは学問の話ではなく、王家の首元の話になる。
ルイスは、その考えを、すぐには捨てなかった。捨てないまま、脇へ置いた。
線が、古すぎるからだ。
シルヴァーヌ嬢は「屋敷と、領地の用水路と、王宮」で同じものを見たと言った。三箇所に同じ細工を仕込める者がいるなら、その者は、とうに王宮を落としている。
(つまり、敵ではない。──もっと厄介なものだ)
誰かが仕掛けたのではなく、初めから、そう作られている。
その方が、よほど始末に悪い。仕掛けた者なら捕らえられるが、設計そのものが誤っているなら、捕らえる相手がいない。
だから、ルイスは書き足した。
六、シルヴァーヌ侯爵家からの比較報告書。
ルイスは、その行を見つめた。
リゼットは後日、父を通して報告書を出すと言った。屋敷付き魔術師ロアンの確認印と、エミール・ガランの参考署名を添えて。
「エミール・ガラン……」
ルイスは名前を口にした。
聞き覚えはある。王立学院にいた老魔法師で、古い術式体系にこだわり、主流から外れた人物だ。
宮廷では、好意的に語られる名ではない。
(だからこそ、報告書は軽く扱われる可能性がある)
ルイスは紙の端を指で叩いた。
それは政治の問題だ。学問の中身ではなく、名前で判断される。よくあることだ。よくあるからこそ、面倒だった。
「殿下」
侍従が控えめに言う。
「そのご令嬢の報告を、そこまで気になさる理由は」
ルイスは少し黙った。
理由なら、いくらでも挙げられる。王宮の安全。未知の術式。六歳の異才。シルヴァーヌ侯爵家との関係。
だが、一番正確な答えは、少し違う。
「分からないからだ」
ルイスは言った。
「分からないものを、分かったふりで片づけるのは危険だ」
侍従は、今度こそ黙った。
その言葉は王太子らしい慎重さでもあり、どこか先ほどの令嬢に似てもいた。
* * *
一方そのころ。
シルヴァーヌ家の馬車の中で、サイラスは深く息を吐いていた。
夜会は終わった。家は取り潰されていない。リゼットは壁を叩いていない。王太子殿下に禁書庫とも言っていない。
勝利と言えば、勝利だった。
かなり低い位置にある勝利である。
「リゼット」
「はい」
「帰ったら、すぐ寝なさい」
「報告書の下書きを」
「寝なさい」
「八ページです」
「寝なさい」
「簡易版です」
「寝なさい」
サイラスの声は、領主ではなく父だった。
リゼットは少し考えた。
「では、項目だけ整理してから」
「寝なさい」
マリーが横から、そっと毛布を広げた。
「お嬢様。今日は十分に研究なさいました。続きは明日でございます」
「観測条件が悪かったので、十分ではありません」
「精神的には十分でございます。主に私どもの」
リゼットは納得していない顔をした。
だが、馬車の揺れは規則的だった。夜会の緊張は、本人が思うより体に残っていたらしい。淡い紫のドレスの裾を整えたまま、リゼットの瞼は少しずつ重くなっていった。
「……比較対象は、四つ」
小さく呟く。
「屋敷、用水路、王都、王宮……」
「はいはい」
マリーが毛布をかける。
「明日、書きましょうね」
「明日……」
リゼットは、まだ何か言いたそうにしていた。けれど、次の揺れで言葉は途切れた。
眠った。
サイラスとマリーは、同時に息を吐いた。
「寝ましたね」
「寝たな」
「旦那様」
「何だ」
「今日は、家が残りました」
「そうだな」
二人は静かに頷き合い、かなり低い位置にある勝利を噛みしめた。
* * *
その夜、侯爵邸の執務室には、まだ灯りがあった。
机の上に広げられているのは、娘が書きかけている比較報告書の下書きである。寝かしつけた側の人間が、寝ていない。
(……二重化の発生条件、か)
サイラスは、分からない箇所に印をつけながら読み進めた。印は、増えた。増えるほど、頁をめくる速さは上がった。
明日、聞くつもりだった。聞いてどうするのかは、決めていない。ただ、続きが知りたかった。
翌朝、余白に増えた書き込みを見て、マリーは静かに言った。
「旦那様。……お熱は、下がりませんか」
「うるさい」
侯爵家の胃薬の消費量は、その日から、二人分になった。
* * *
王宮では、ルイスがもう一度だけメモを見ていた。
『再現性』
その一語を、彼は丸で囲む。
リゼットの問いが本物かどうかは、まだ分からない。彼女が見た線が、他人にも見えるかどうかも分からない。宮廷魔術師が確認すれば、ただの補修線だと言うかもしれない。
それでも。
問いを消すには、まだ早い。
「明日、確認する」
ルイスは紙を伏せた。
八歳の王太子は、その夜初めて、夜会の感想ではなく、ひとつの研究条件を考えながら眠ることになった。




