最初の会話
王太子ルイスとの最初の会話は、誰も予想していない形で終わった。
甘い挨拶ではない。
令嬢らしい恥じらいでもない。
婚約の匂わせでもない。
ましてや、禁書庫の話でもない。
分からない線について。
証明ではなく、問いについて。
そして、正式な比較報告書について。
それが、六歳の令嬢と八歳の王太子の最初の会話だった。
周囲の令嬢たちは、当然ついていけていない。
「……今、何のお話をなさっていたのかしら」
「柱、ですわよね」
「柱のお話で、殿下が笑われたのですか」
「柱に負けましたわ……」
最後の令嬢は、何と戦っていたのだろう。
リゼットは気にしていなかった。
彼女の意識は、すでに報告書の構成に向かっている。
(屋敷照明陣、第一用水路、王都街灯、王宮大広間。比較対象は四つ。王宮は目視のみなので、観測信頼度を下げる必要があります)
信頼度。
条件。
限界。
未証明。
重要なのは、そこだった。
王太子が興味を示した。
だから正しい。
そんな話ではない。
相手が王太子でも、証明できないものは証明できない。
「お嬢様」
マリーが小声で呼んだ。
「はい」
「先ほどの会話は、比較的、比較的ですが、よく耐えました」
「耐える?」
「禁書庫と言わなかった点でございます」
「現時点では優先順位が低いので」
マリーは胸に手を当てた。
成長である。
かなり低い場所にある成長である。
「ただし」
リゼットは続けた。
「王宮の資料室、王立学院専門書、宮廷魔術師論文へ接続できる可能性は生じました」
「やはり何か始まっておりますね」
「始まってはいません。提出経路ができただけです」
「世間では、それを始まりと呼ぶことが多いのでございます」
マリーは遠い目をした。
* * *
ルイスは貴族たちの輪へ戻った。
戻った。
戻ったはずだった。
だが、会話の内容が頭から離れない。
「殿下。本日はお目にかかれて光栄にございます」
「こちらこそ」
「我が領では今年、麦の収穫が」
「それは喜ばしい」
口は動く。
表情も崩れない。
王太子としての応答は、いつも通りにできている。
しかし、思考の一部は東側の柱に残っていた。
未知の線。
証明ではなく問い。
再現性。
(六歳の令嬢が、あの場で売り込まなかった)
普通なら、自分に興味を持たせたいはずだ。
王太子に覚えてもらいたいはずだ。
家の利益を引き出したいはずだ。
だが、リゼットは違った。
その場で答えを押しつけなかった。
王宮の欠陥だと騒がなかった。
自分の発見を大きく見せなかった。
正式な経路で報告書を出すと言った。
それが、妙に引っかかる。
「殿下」
筆頭侍従が、そっと声を落とした。
「先ほどの件、宮廷魔術師に確認を取りますか」
「今すぐではない」
「よろしいのですか」
「夜会の最中に騒ぐ話ではない。彼女もそう言った」
侍従は少し驚いた顔をした。
「あのご令嬢の言葉を、採用なさるのですか」
「採用ではない。筋が通っているだけだ」
ルイスは果実水のグラスを持ち直した。
「現時点では緊急性が確認できない。観測条件も悪い。ならば、ここで大人を集めて騒ぐ方が不合理だ」
「……殿下」
「何だ」
「楽しそうでございます」
ルイスは、わずかに動きを止めた。
「そう見えるか」
「はい」
「それは困るな」
王太子は、誰か一人に強く興味を示してはいけない。
特に夜会の場では。
噂は、事実より速い。
ルイスは表情を整えた。
だが、侍従の指摘は間違っていなかった。
退屈ではない。
少なくとも、今夜は。
* * *
サイラスは、娘の横で静かに胃を守っていた。
「リゼット」
「はい、お父様」
「後日、報告書を出すと言ったな」
「はい」
「どの程度のものを想定している」
「簡易版なら八ページです」
サイラスは目を閉じた。
「簡易で八ページか」
「王宮大広間は目視のみですので、詳細な図版は避けます」
「避けて八ページか」
「比較対象が四つありますので」
「そうか」
父は悟った。
これは止まらない。
ただし、暴走ではない。
そこが救いであり、別の意味で恐ろしい。
「内容は」
「未知補助線らしき曲線の比較表。二重化現象の発生条件。模型術式での再現失敗記録。王宮での目視観測の限界。以上です」
「改善案は」
「書きません」
サイラスは目を開けた。
「書かないのか」
「現時点では危険です。原因を切り分けていない線に触るべきではありません」
サイラスは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
この娘は、以前なら直したがったかもしれない。
今も直したいのだろう。
だが、直さないと決めている。
それは成長だった。
「よろしい」
「はい」
「ただし、報告書は私が先に読む」
「当然です。父上の署名がなければ、正式な経路に乗りません」
「……分かっているならいい」
サイラスはそう言った。
分かっている。
分かっているが、怖い。
理解できる分だけ、怖い。
* * *
大広間では、音楽が再び始まっていた。
令嬢たちは踊る。
貴族たちは談笑する。
王太子は挨拶を続ける。
夜会は何事もなかったように進んでいく。
表面上は。
リゼットは、壁から一歩離れたまま、扇を閉じた。
もう十分だ。
今日の観測は、これ以上精度が上がらない。
無理に見続ければ、見えた気になる危険が増える。
「マリー」
「はい」
「観測を終了します」
マリーは一瞬、言葉を失った。
「……終了、でございますか」
「はい。条件が悪いので」
「お嬢様が、ご自分から、観測を」
「終了します」
マリーは目頭を押さえた。
今日は記念日かもしれない。
王宮で壁を叩かず、禁書庫を口にせず、観測を自分から切り上げた。
普通の令嬢なら当たり前のことが、なぜこんなに眩しいのか。
「では、お茶を」
「はい」
「甘いものも」
「少しだけ」
マリーは勝った。
かなり大きな勝利だった。
* * *
少し離れた場所から、ルイスはその様子を見ていた。
リゼットが柱から離れる。
侍女と何か話す。
そして、茶の置かれた場所へ向かう。
(切り上げた?)
ルイスは軽く眉を動かした。
見たいものがあるなら、見続ければいい。
少なくとも、彼女ならそうしそうだと思っていた。
だが、彼女はやめた。
条件が悪いから。
たぶん、それが理由だ。
ルイスは、ますます分からなくなった。
無礼ではない。
臆病でもない。
自信過剰でもない。
好奇心は強い。
だが、断定はしない。
(本当に、何なんだ)
その疑問は、今夜のどの挨拶よりも鮮明だった。
「殿下」
侍従が次の挨拶相手を告げる。
ルイスは頷いた。
「分かっている」
王太子としての仕事へ戻る。
ただし、心の片隅にはもう、ひとつの問いが置かれていた。
シルヴァーヌ侯爵家のリゼット嬢は、何を見ているのか。
そして。
それは、本当に他の誰にも見えないものなのか。




