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魔法陣にしか興味がない悪役令嬢、破滅フラグを条件表に載せる 〜古代魔導書を読むために、王太子と政略結婚を結びました〜  作者: NN
【第二章】同じ目の人

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全部、守っている

 大広間の東側。


 サイラス・ド・シルヴァーヌは、壁際に立って、貴族としての挨拶をこなしていた。


 こなしながら、数えていた。


 娘の位置を、である。


 控え室の扉から出て、七歩。柱から一歩分の距離。手は前で重ねられている。走っていない。触っていない。


 全部、守っている。


 それなのに、なぜ肩の力が抜けないのか。


 サイラスには、その理由が分かっていた。


 分かっているから、なお悪かった。



     * * *



「シルヴァーヌ侯爵。お久しぶりですな」


 声をかけてきたのは、東部に領地を持つ伯爵だった。


「ホルバッハ卿。ご無沙汰しております」


「今日はご息女も?」


「ええ。初めての夜会です」


「うちの娘も同じでしてな。朝から三度もドレスを替えて、侍女を泣かせておりました」


 伯爵は笑った。


 父親らしい笑いだった。


 サイラスは、同じ顔で笑い返した。


 娘の話をすればいい。それだけのことである。


 ただ、彼にはそれができない。


 うちの娘は、と言いかけて、いつも詰まる。


 ドレスを三度替えた、とは言えない。うちの娘は、ドレスに内ポケットを二つ要求して、侍女長と交渉して負けました。持ち込もうとしたのは魔法陣の模型紙片です。


 言えるはずがない。


「……うちも、侍女長には苦労をかけております」


 嘘ではなかった。


 嘘ではないが、事実の九割を落としていた。


 最近、彼の会話はいつもこうなる。



     * * *



 娘が五歳だったあの日。


 医師は、診察のあとで「異常なし」と言った。


 マリーは、その場で「絶対に違います」と食い下がった。


 サイラスは、何も言わなかった。


 言えなかった、という方が正しい。


 あの日から、彼はずっと同じことをしている。


 娘を理解しようとしてきた。


 報告書を読んだ。別紙も読んだ。胃薬を飲みながら、七ページを読み、九ページを読み、十二ページになると削れと言った。


 最初は、意味が分からなかった。


 今は、分かる。


 照明陣の魔力消費が一割一分下がったと聞けば、それが領地の何に効くのかが分かる。用水路の石碑に妙な線があると聞けば、なぜ触ってはいけないのかが分かる。


 理解できるようになった。


 それが、問題だった。



     * * *



 理解できないものは、ただ怖い。


 だが、理解できるものは、予測できてしまう。


 サイラスは、扇を持った娘の後ろ姿を見ていた。


 あの子は、約束を守っている。


 壁に触るな、と言った。触っていない。


 走るな、と言った。走っていない。


 だが。


 守っているのは、父との約束ではない。


 守った方が、観測を続けられるからだ。


 娘は、条件表にそう書いている。『社交は研究環境維持の手段』と。彼はその一行を、自分の手で読んだ。


 ならば。


 外した方が続けられる、と判断した日。


 あの子は、迷わず外す。


 悪意ではない。反抗でもない。計算がそう出た、というだけの理由で。


 サイラスは、グラスの脚を少し強く握った。


 父の言うことを聞かない子供なら、叱ればいい。


 父の言うことを、理由があるから聞いている子供を、どう叱ればいいのか。


 彼は、その方法を知らなかった。



     * * *



 視線を上げると、マリーと目が合った。


 娘の斜め後ろで、侍女長は完璧な笑顔を保っている。


 保ったまま、目だけで何かを訴えてきた。


 サイラスには読めた。


(今、柱の話をなさいました)


 彼は、目だけで返した。


(触ってはいないな)


(触ってはおられません)


(では、よろしい)


 二人は、同時に、ほんの少しだけ息を吐いた。


 この一年で、主従の間に妙な言語ができあがっている。


 誰にも説明できない言語だった。



     * * *



 少し離れた場所で、娘が令嬢の一人に話しかけられていた。


 声は、聞こえない。


 距離がある。音楽もある。人の話し声もある。この位置で娘の言葉が聞こえるはずがない。


 それでも、サイラスには分かった。


 娘の口が、一度、動きかけた。


 そして、止まった。


 止めたのだ。自分で。


 それから、別の形で動き直した。今度は、短い言葉だった。


 相手の令嬢の表情が、ぱっと明るくなる。


 うまくいったらしい。


 何を言いかけて、何に言い直したのか。


 サイラスには、見当がついた。


 あの子の頭の中には、この広間を説明するための語彙が、二種類ある。ひとつは、令嬢のものだ。もうひとつは、報告書のものである。


 言いかけて止めたのは、後者だろう。


 斜め後ろで、マリーがほんのわずかに顎を引いた。


(言い直されました)


(そうか)


 周囲の誰も、何も気づかなかった。


 気づいたのは、この広間で二人だけである。侍女長と、父親だけだった。


 サイラスは、目を伏せた。


 誇らしい、と思った。


 それから、その誇らしさの中身を確かめて、少し途方に暮れた。


 彼が誇らしく思ったのは、娘が令嬢らしく振る舞えたことではない。


 娘が、自分の異常さを自分で観測し、その場で修正できたことだった。


 六歳の子供に対して、父親が抱く感想ではない。



     * * *



「侯爵閣下。ご息女は、ずいぶん落ち着いていらっしゃいますな」


 別の貴族が、感心したように言った。


「初めての夜会で、あの姿は珍しい。よほど肝が据わっておいでか」


「……そうかもしれません」


 サイラスは、曖昧に頷いた。


 肝が据わっているのではない。


 あの子は、この広間を怖いと思っていない。


 思っていないのだ。


 貴族の視線も、王族の権威も、娘にとっては観測条件の一つでしかない。怖いものは、たぶん一つしかない。


 分からないものが、確認できないまま目の前にあること。


 それだけである。


 サイラスは、一度だけ、自分に問うたことがある。


 なぜ、止めなかったのか。


 あの日、図書室で。付箋だらけの魔導書を前にして、禁止すると言いかけて、彼は条件をつけるほうを選んだ。


 領主として、止める方が損だと判断した。


 そう自分に言い聞かせてきた。


 半分は、本当である。


 残りの半分を、彼は誰にも言っていない。


 ──見たかったのだ。


 あの子が次に何を見つけるのかを。


 自分の屋敷の床に、自分の領地の石碑に、四十年誰も気づかなかった線が走っていると言われて。


 怖い、と思った。


 同時に、続きを聞きたい、と思ってしまった。


 その日から、彼は共犯である。



     * * *



 音楽が変わった。


 令嬢たちが扇を整え、大広間の中央へ視線を集めはじめる。


 娘が、控え室の方から歩いてきた。


 走っていない。


 壁に触っていない。


 柱から、きちんと一歩分。


 サイラスは、その姿を目で追った。


 今夜、あの子は約束を三つ守るだろう。


 走らない。触らない。殿下へ突撃しない。


 三つとも、守る。


 守った上で。


 私の思いつかなかった、四つ目をやる。


 サイラスは、グラスの中身を一息で飲んだ。


 空になったグラスを、通りかかった侍従の盆に載せる。


 それから、壁を離れ、娘のほうへ歩き出した。


 怖い、と思った。


 だが、いちばん怖いのは、その予測が当たることではない。


 当たったあとで、たぶん自分は、それを止めないだろうということだった。


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