全部、守っている
大広間の東側。
サイラス・ド・シルヴァーヌは、壁際に立って、貴族としての挨拶をこなしていた。
こなしながら、数えていた。
娘の位置を、である。
控え室の扉から出て、七歩。柱から一歩分の距離。手は前で重ねられている。走っていない。触っていない。
全部、守っている。
それなのに、なぜ肩の力が抜けないのか。
サイラスには、その理由が分かっていた。
分かっているから、なお悪かった。
* * *
「シルヴァーヌ侯爵。お久しぶりですな」
声をかけてきたのは、東部に領地を持つ伯爵だった。
「ホルバッハ卿。ご無沙汰しております」
「今日はご息女も?」
「ええ。初めての夜会です」
「うちの娘も同じでしてな。朝から三度もドレスを替えて、侍女を泣かせておりました」
伯爵は笑った。
父親らしい笑いだった。
サイラスは、同じ顔で笑い返した。
娘の話をすればいい。それだけのことである。
ただ、彼にはそれができない。
うちの娘は、と言いかけて、いつも詰まる。
ドレスを三度替えた、とは言えない。うちの娘は、ドレスに内ポケットを二つ要求して、侍女長と交渉して負けました。持ち込もうとしたのは魔法陣の模型紙片です。
言えるはずがない。
「……うちも、侍女長には苦労をかけております」
嘘ではなかった。
嘘ではないが、事実の九割を落としていた。
最近、彼の会話はいつもこうなる。
* * *
娘が五歳だったあの日。
医師は、診察のあとで「異常なし」と言った。
マリーは、その場で「絶対に違います」と食い下がった。
サイラスは、何も言わなかった。
言えなかった、という方が正しい。
あの日から、彼はずっと同じことをしている。
娘を理解しようとしてきた。
報告書を読んだ。別紙も読んだ。胃薬を飲みながら、七ページを読み、九ページを読み、十二ページになると削れと言った。
最初は、意味が分からなかった。
今は、分かる。
照明陣の魔力消費が一割一分下がったと聞けば、それが領地の何に効くのかが分かる。用水路の石碑に妙な線があると聞けば、なぜ触ってはいけないのかが分かる。
理解できるようになった。
それが、問題だった。
* * *
理解できないものは、ただ怖い。
だが、理解できるものは、予測できてしまう。
サイラスは、扇を持った娘の後ろ姿を見ていた。
あの子は、約束を守っている。
壁に触るな、と言った。触っていない。
走るな、と言った。走っていない。
だが。
守っているのは、父との約束ではない。
守った方が、観測を続けられるからだ。
娘は、条件表にそう書いている。『社交は研究環境維持の手段』と。彼はその一行を、自分の手で読んだ。
ならば。
外した方が続けられる、と判断した日。
あの子は、迷わず外す。
悪意ではない。反抗でもない。計算がそう出た、というだけの理由で。
サイラスは、グラスの脚を少し強く握った。
父の言うことを聞かない子供なら、叱ればいい。
父の言うことを、理由があるから聞いている子供を、どう叱ればいいのか。
彼は、その方法を知らなかった。
* * *
視線を上げると、マリーと目が合った。
娘の斜め後ろで、侍女長は完璧な笑顔を保っている。
保ったまま、目だけで何かを訴えてきた。
サイラスには読めた。
(今、柱の話をなさいました)
彼は、目だけで返した。
(触ってはいないな)
(触ってはおられません)
(では、よろしい)
二人は、同時に、ほんの少しだけ息を吐いた。
この一年で、主従の間に妙な言語ができあがっている。
誰にも説明できない言語だった。
* * *
少し離れた場所で、娘が令嬢の一人に話しかけられていた。
声は、聞こえない。
距離がある。音楽もある。人の話し声もある。この位置で娘の言葉が聞こえるはずがない。
それでも、サイラスには分かった。
娘の口が、一度、動きかけた。
そして、止まった。
止めたのだ。自分で。
それから、別の形で動き直した。今度は、短い言葉だった。
相手の令嬢の表情が、ぱっと明るくなる。
うまくいったらしい。
何を言いかけて、何に言い直したのか。
サイラスには、見当がついた。
あの子の頭の中には、この広間を説明するための語彙が、二種類ある。ひとつは、令嬢のものだ。もうひとつは、報告書のものである。
言いかけて止めたのは、後者だろう。
斜め後ろで、マリーがほんのわずかに顎を引いた。
(言い直されました)
(そうか)
周囲の誰も、何も気づかなかった。
気づいたのは、この広間で二人だけである。侍女長と、父親だけだった。
サイラスは、目を伏せた。
誇らしい、と思った。
それから、その誇らしさの中身を確かめて、少し途方に暮れた。
彼が誇らしく思ったのは、娘が令嬢らしく振る舞えたことではない。
娘が、自分の異常さを自分で観測し、その場で修正できたことだった。
六歳の子供に対して、父親が抱く感想ではない。
* * *
「侯爵閣下。ご息女は、ずいぶん落ち着いていらっしゃいますな」
別の貴族が、感心したように言った。
「初めての夜会で、あの姿は珍しい。よほど肝が据わっておいでか」
「……そうかもしれません」
サイラスは、曖昧に頷いた。
肝が据わっているのではない。
あの子は、この広間を怖いと思っていない。
思っていないのだ。
貴族の視線も、王族の権威も、娘にとっては観測条件の一つでしかない。怖いものは、たぶん一つしかない。
分からないものが、確認できないまま目の前にあること。
それだけである。
サイラスは、一度だけ、自分に問うたことがある。
なぜ、止めなかったのか。
あの日、図書室で。付箋だらけの魔導書を前にして、禁止すると言いかけて、彼は条件をつけるほうを選んだ。
領主として、止める方が損だと判断した。
そう自分に言い聞かせてきた。
半分は、本当である。
残りの半分を、彼は誰にも言っていない。
──見たかったのだ。
あの子が次に何を見つけるのかを。
自分の屋敷の床に、自分の領地の石碑に、四十年誰も気づかなかった線が走っていると言われて。
怖い、と思った。
同時に、続きを聞きたい、と思ってしまった。
その日から、彼は共犯である。
* * *
音楽が変わった。
令嬢たちが扇を整え、大広間の中央へ視線を集めはじめる。
娘が、控え室の方から歩いてきた。
走っていない。
壁に触っていない。
柱から、きちんと一歩分。
サイラスは、その姿を目で追った。
今夜、あの子は約束を三つ守るだろう。
走らない。触らない。殿下へ突撃しない。
三つとも、守る。
守った上で。
私の思いつかなかった、四つ目をやる。
サイラスは、グラスの中身を一息で飲んだ。
空になったグラスを、通りかかった侍従の盆に載せる。
それから、壁を離れ、娘のほうへ歩き出した。
怖い、と思った。
だが、いちばん怖いのは、その予測が当たることではない。
当たったあとで、たぶん自分は、それを止めないだろうということだった。




