王都初上陸、魔法陣が多すぎる
王宮へ向かう馬車の中。
リゼットは、淡い紫のドレスを着て、背筋を伸ばして座っていた。膝の上には何もない。手には扇。内ポケットには、模型紙片が一枚だけ。
見た目だけなら、初めて王宮の夜会へ向かう侯爵令嬢である。
見た目だけなら。
「お嬢様。念のため、今日の目的をお聞かせくださいませ」
「王宮という巨大な術式環境を、接触せずに観測すること。未知補助線の再現条件に使える比較材料を得ること。必要最低限の社交を行い、今後の研究環境を悪化させないこと」
「大変よくできました」
マリーは、心からほっとした。最近、この屋敷では「王宮で何もしない」だけで褒められる。褒める基準が、かなり下がっていた。
「もう一つ」
向かいに座るサイラスが言う。
「王太子殿下へ、自分から突撃しない」
「記憶しています」
「記憶だけでなく、実行してくれ」
「最大限努力します」
「まだ弱い」
サイラスは額に手を当てた。王宮へ入る前から、胃が準備運動を始めている。
* * *
馬車が王都シルヴェの城門をくぐった瞬間。
リゼットの呼吸が、ほんの少しだけ止まった。
石畳。街灯。水路。橋。商館の外壁。広場の噴水。
そこかしこに魔法陣がある。
侯爵邸や領地の第一用水路とは、密度が違った。生活用、交通用、防犯用、防火用、照明用、排水用。大小さまざまな術式が、街の表面と裏側に薄く重なっている。
まるで、都市そのものが一冊の巨大な魔導書だった。
「……多い」
リゼットは窓の外を見たまま、小さく呟いた。
「魔法陣が、多すぎます」
「お嬢様。お顔を窓に近づけすぎないでくださいませ」
「あの石畳、一定間隔で照明陣が埋め込まれています。夜間に連動発光する構造ですね。ただ、隣接する陣の魔力経路が少し近い。光量にムラが出ます」
「お嬢様」
「橋脚の補強陣は面白いですね。土属性の強度線を三次元的に組んでいます。ただ、経路が一本に寄りすぎている」
「お嬢様」
マリーの声が少し低くなった。
リゼットは、ようやく顔を戻した。
「観測のみです」
「本当に?」
「触りません」
「本当に?」
「今は」
「今は、を付けないでくださいませ」
マリーは両手を組んだ。祈りに近かった。
* * *
中央大通りへ入ると、街灯の根元、側溝の奥、商館の入口。目に入る術式のいくつかに、わずかに見覚えのある曲線が混じっていた。
「……」
リゼットは扇を握る指に力を入れた。
未知補助線。屋敷の照明陣。第一用水路の灌漑陣。模型術式で起きた二重化。
それらと完全に同じではない。だが、曲がり方の癖が似ている。
「お嬢様?」
「確定ではありません」
「何がでございますか」
「見えた気がしただけです」
リゼットは窓から少し距離を取った。
ここで断定してはいけない。馬車は動いている。距離もある。角度も悪い。記録用紙もない。観測条件が雑すぎる。
「……不快です」
「何がでございますか」
「分かった気になることです」
マリーは一瞬だけ目を丸くした。
リゼットが、分からないものを分からないままにしている。それは普通のことのはずなのに、なぜか成長を見た気分になった。
「では、後で確認なさいますか」
「はい。正式な許可を取って、止まった状態で、距離と角度を管理して観測します」
「とても普通ではありませんが、勝手に飛び出さないだけ立派でございます」
「評価基準が低くありませんか」
「低くしております」
* * *
王宮の外壁が近づいてきた。
白亜の壁。高い尖塔。整えられた庭園。門前に並ぶ衛兵。
王宮は、ただ豪華な建物ではなかった。外壁そのものに、広域防護の基礎陣が組み込まれている。庭園の水路には、水量調整の陣。門の柱には、通行記録の補助陣らしきもの。
王都が巨大な魔導書なら、王宮はその表紙だった。厚く、硬く、美しく、そして簡単には開けない。
「……触らない」
リゼットは小さく言った。
「大変よろしいです」
マリーは即座に褒めた。
馬車が大階段の前で止まる。御者が扉を開けると、外から夜会の音が流れ込んできた。音楽。笑い声。絹の衣擦れ。香水の匂い。
普通の令嬢なら、緊張する場面である。
リゼットは、大階段の左右に組み込まれた照明陣を見ていた。
「左右非対称……?」
「お嬢様」
「はい」
「第一声がそれでよろしいのですか」
「よくありません」
リゼットは一度目を閉じた。深呼吸。そして、扇を持ち直す。
「行くぞ、リゼット」
「はい、お父様」
リゼットは父の手を取り、馬車を降りた。
石畳に靴が触れる。
その瞬間、ほんのわずかに、足元の照明陣の線が青白く揺れた気がした。
発動ではない。接触でもない。ただの錯覚かもしれない。
けれど、リゼットの目はそれを見逃さなかった。
(今のは、何ですか)
問いが一つ増える。答えはまだない。
* * *
白亜の王宮の中は、外から見た時よりさらに眩しかった。
磨き上げられた床。天井から吊るされた魔力水晶のシャンデリア。壁に並ぶ絵画。廊下の奥まで続く、柔らかな照明。
リゼットは、床の目地を見ていた。
「リゼット」
隣を歩くサイラスが、低く呼ぶ。
「今、お前はどこを見ている」
「床です」
「人を見ろ」
「床にも人が映っています」
「そういう意味ではない」
サイラスは小さく息を吐いた。まだ王宮に入って数分である。
マリーがすかさず耳元で囁く。
「壁、床、柱には触れない。近づきすぎない」
「一歩分」
「叩かない」
「叩きません」
「撫でない」
「撫でません」
「褒める時は?」
「よくお似合いです」
「完璧でございます」
「床にも言えますか」
「床には言わないでくださいませ」
マリーは笑顔のまま、目だけで必死に訴えた。
* * *
舞踏会が始まるまでの間、若い令嬢たちは控え室へ案内された。
広いサロンには、色とりどりのドレスが集まっている。香水の甘い香り。扇で隠した小さな笑い声。王太子ルイス殿下の噂。
「本日の夜会、ルイス殿下もいらっしゃるそうですわ」
「一曲でもお相手していただけたら、きっと一生の思い出になりますわね」
ふわふわした会話が、部屋のあちこちで弾んでいる。
そんな中、リゼットは壁から一歩離れた場所に立っていた。
一歩。約束通りである。
「触っていません」
「はい。そこは大変よろしいです」
「ただし、壁紙の模様の一部が空調陣の補助回路になっています」
「そこは聞いておりません」
リゼットは扇を口元に当て、壁紙を眺めた。
ダマスク柄。花と蔓の装飾。その一部に、細い魔力回路が紛れている。
王宮の術式は、雑ではなかった。むしろ、丁寧だ。古い部分を壊さず、新しい機能を重ねている。
ただし。
「継ぎ足しが多いですね」
「また不穏なことを」
「否定ではありません。観測です」
リゼットは小声で続ける。
「温度調整、湿度調整、防音。三つの機能が別々の時代に足されています。全体統括は弱い。ですが、王宮の歴史を考えれば当然です。一度に作った建物ではありませんから」
「では、何が問題なのでございますか」
「分からない線が混じっています」
マリーの笑顔が固まった。
壁紙の花弁の一部。空調陣の補助線の端。そこに、ごく細い曲線がある。
屋敷の照明陣。第一用水路の灌漑陣。王都の街灯。それらに似ている。似ているが、同じではない。
* * *
その時、同年代らしい令嬢が一人、リゼットに近づいてきた。
銀色の髪に、水色のリボン。緊張した顔で、それでもきちんと礼をする。
「ごきげんよう。シルヴァーヌ様でいらっしゃいますか」
リゼットは一拍置いた。
マリーが斜め後ろで、祈るように見ている。
「ごきげんよう」
まず挨拶。成功。
「本日のドレス、よくお似合いです」
次に褒める。成功。
マリーの目が少し潤んだ。感動の位置が、やはり低い。
「ありがとうございます。シルヴァーヌ様のドレスも、とても綺麗ですわ」
「ありがとうございます」
ここまでは完璧だった。
「王宮の夜会は、初めてでいらっしゃいますか」
「はい。初めてです」
「私もです。少し緊張してしまって」
「緊張は自然な反応です。知らない環境では、観測対象が増えますので」
「観測……?」
令嬢が瞬きをした。
マリーの祈りが強くなった。
リゼットは、危険を察知した。今の返答は、普通の令嬢会話から少し外れた。少し、ではないかもしれない。
「……王宮は、とても綺麗ですね」
言い直した。
令嬢の表情がぱっと明るくなる。
「ええ、本当に。シャンデリアも素敵ですわ」
「はい。光の広がり方が」
そこで止めた。
危なかった。
「とても、綺麗です」
マリーが背後で無音の拍手をした。
六歳の社交は、薄氷の上を歩いている。主に周囲の大人の胃が。
* * *
会話が途切れたところで、リゼットは視線だけを天井へ向けた。
巨大な魔力水晶のシャンデリア。発光陣は複雑だが、美しい。水晶の切子面と発光線を合わせ、光を柔らかく散らしている。
ただ、完全ではない。
中央の光が、ほんのわずかに二重に見える。
目の錯覚か。水晶の屈折か。それとも、模型術式で見た二重化と同じ現象か。
分からない。分からないので、断定しない。
リゼットは扇の骨を指で一つ叩き、心の中で仮説だけを並べた。
『仮説1:水晶の切子面による単純な屈折』
『仮説2:発光陣の位相ずれ』
『仮説3:未知補助線による別層干渉』
どれも未証明。
それが、気持ち悪い。そして、面白い。
「お嬢様。お顔が少し楽しそうでございます」
「分からないことが増えました」
「普通は困るところでございます」
「困っています」
「楽しそうに困らないでくださいませ」
* * *
控え室の扉が開いた。
侍従が、よく通る声で告げる。
「令嬢の皆さま。大広間へご移動ください。間もなく国王陛下ならびに王太子殿下がご入場あそばされます」
部屋の空気が一気に華やいだ。
令嬢たちが扇を整え、ドレスの裾を直し、少し緊張した顔で扉へ向かう。
リゼットも歩き出した。
「マリー」
「はい」
「大広間では、まず一曲踊ります」
マリーが目を見開いた。
「お嬢様が、ご自分から……!」
「お父様の条件です。資料へ近づくには、家の評判を守る必要があります」
「立派でございます」
「ただし、踊りながら大広間の照明配置を確認します」
「そこは諦めておりました」
マリーはもう驚かなかった。驚かないことに、自分で少し驚いた。
リゼットは扇を閉じ、廊下の先を見た。
王太子ルイス。王宮。禁書庫。
そのどれも、まだ目的地ではない。
いま必要なのは、王宮を論破することではない。誰が見ても同じ現象を確認できる、再現条件を見つけること。そのための観測を、社交の中でこっそり積み上げること。
華やかな音楽が、大広間の向こうから聞こえてきた。
六歳の悪役令嬢は、淡い紫のドレスの裾を揺らしながら、光の中へ進んでいく。
その目は、王太子ではなく。
大広間の天井に浮かぶ、ほんのわずかな光のずれを追っていた。




