王宮への行き方と、魔法陣の在処
王宮主催の夜会、前日。
リゼットの机には、二枚の羊皮紙が広げられていた。
一枚目は、貴族向けに一般公開されている王宮の見取り図。
二枚目は、前日に書き上げた再現実験の手順書。
『未知補助線・第三者再現用模型術式』
王宮。
夜会。
社交。
華やかな単語が並ぶ日程のはずなのに、リゼットの机の上だけは完全に研究室だった。
「大広間の照明系統は、中央シャンデリアを主供給点にしている可能性が高いですね」
リゼットは見取り図に小さな印をつける。
「ただし、今回は実物に触れません。観測のみ。距離は最低でも一歩分を保つ。模型術式の紙片は持ち込むが、王宮内では発動しない」
自分で読み上げる。
自分で確認する。
約束は、書いておかないと破りたくなる。
とても破りたくなる。
「お嬢様」
マリーが背後から静かに声をかけた。
「はい」
「今、非常に不穏な独り言が聞こえました」
「不穏ではありません。自制です」
「自制を口に出して確認しなければならない時点で、不穏でございます」
リゼットは少し考えた。
「一理あります」
「認めてくださった……」
マリーは胸に手を当てた。
最近、感動の位置がかなり低い。
その時、部屋の扉が開き、父サイラスが入ってきた。
手には小さな紙束。
顔には大きな警戒。
「リゼット。明日の夜会について、確認に来た」
「ちょうどよかったです。こちらが王宮内での観測候補地点です」
「やはりあるのか」
サイラスは机の上を覗き込んだ。
王宮の見取り図に、赤い点が三つ。
青い矢印が数本。
その横に、細かい文字で注意書き。
『観測のみ』
『接触禁止』
『発動禁止』
『床に伏せない』
『柱を叩かない』
『壁を撫でない』
サイラスは最後の三つを見て、目を閉じた。
「書く必要があるということは、やる可能性があったのだな」
「可能性を管理するためのチェックリストです」
「父は悲しい」
「悲しみは管理対象外です」
「そうだろうな」
サイラスは椅子に座り、紙束を机に置いた。
「明日の夜会で、お前に求めることをこちらでも整理した」
リゼットが興味深そうに見る。
サイラスの紙には、端正な文字で書かれていた。
『夜会における必須行動』
『1.王宮内を走らない』
『2.壁、床、柱に触れない』
『3.勝手に人の会話を遮らない』
『4.王太子殿下へ自分から突撃しない』
『5.一曲だけ踊る』
「五つ目が異質です」
「それが本来の夜会だ」
「踊らないといけませんか」
「いけない」
「再現実験の手順整理に使える時間が減ります」
「社交に参加しない令嬢は、今後の研究環境を悪化させる」
リゼットの手が止まった。
サイラスは、その隙を逃さなかった。
「貴族社会で『あの家の令嬢は礼儀を知らない』と言われれば、資料を借りるのも、人に会うのも難しくなる。王宮への道を資料から始めるのなら、その資料を運ぶ家の評判も守らねばならん」
リゼットは黙った。
珍しく、反論がすぐに出ない。
「……合理的です」
「そうだ。合理的だ」
サイラスは少し勝った顔をした。
父親として小さな勝利だった。
「では、一曲だけ踊ります」
「よろしい」
「その後は観測に戻ります」
「戻りすぎない範囲でな」
「範囲の定義を」
「父の目が届く範囲だ」
「厳しい条件です」
「当然だ」
* * *
次に問題になったのは、同年代の令嬢たちとの会話だった。
マリーが、まるで戦場の作戦会議のような顔で言う。
「お嬢様。明日は、同じ年頃のご令嬢方もいらっしゃいます。どうか、普通にご挨拶をなさってください」
「普通とは」
「まず笑顔です」
「口角を上げます」
「心も添えてください」
「難易度が上がりました」
「上げております」
マリーは真剣だった。
「次に、相手のドレスを褒めます」
「可動域が優れていますね、などですか」
「違います」
「では、縫製精度が高いですね」
「惜しいですが違います」
「色の選択が、光属性の反射効率を──」
「違います」
マリーは深呼吸した。
「『よくお似合いです』でよろしいのです」
「情報量が少ないですね」
「それが社交です」
「社交は圧縮率が高い」
「たぶん違います」
サイラスは横で聞きながら、肩を震わせていた。
笑っているのか、胃が痛いのか、判別が難しい。
「それと、王太子殿下にお会いしても、こちらから報告書を出さないこと」
マリーが念を押す。
「出しません」
「本当に?」
「まだ再現条件が整っていません。未完成の資料を出すのは、こちらの信用を下げます」
マリーは目を丸くした。
「お嬢様が……王太子殿下より再現条件を優先していらっしゃる……」
「当然です」
リゼットは真顔で頷いた。
「王太子殿下は逃げません。ですが、再現条件は逃げます」
「逃げるのですか」
「記録しない現象は、すぐ曖昧になります」
それは正しかった。
正しいせいで、誰も否定できなかった。
* * *
夕方。
完成した淡い紫のドレスが、姿見の前に掛けられた。
余計な飾りは少ない。
裾は軽い。
袖口は細い。
銀糸のレースは控えめで、光を受けると星屑のように瞬く。
そして、内側には小さなポケットが一つ。
マリーの最後の砦である。
「二つに増やせませんか」
「増やせません」
「模型紙片と記録用紙を分けたいのですが」
「模型紙片だけです。記録は頭の中になさってください」
「頭の中は一時記憶です」
「お嬢様の一時記憶は、私どもの帳簿より信用できます」
リゼットは反論しようとして、少し考えた。
「では、今回は一つで妥協します」
「ありがとうございます」
マリーは勝った。
今日二度目の小さな勝利だった。
リゼットはドレスに袖を通した。
姿見の中に、淡い紫の少女が立つ。
銀灰色の髪。
薄紫の瞳。
無駄のないシルエット。
リゼット本人は、裾の可動域を確認していた。
「軽いですね」
「お似合いです」
「重心移動にも問題ありません」
「お似合いです」
「内ポケットの位置は少し浅いです」
「お似合いです」
マリーは譲らなかった。
リゼットは姿見を見た。
しばらく黙る。
「……悪くありません」
小さく言った。
マリーは、その一言だけで十分だった。
* * *
翌朝。
シルヴァーヌ侯爵邸の玄関前には、王宮へ向かう馬車が用意されていた。
リゼットは淡い紫のドレスを着て、静かに立っている。
手には小さな手袋。
内ポケットには、再現用の模型紙片が一枚だけ。
報告書はない。
記録用紙もない。
マリーの監視が勝った。
「忘れ物はないか」
サイラスが尋ねる。
「ありません」
「本当に?」
「報告書は置いてきました」
「よろしい」
「ただし、頭の中には要約があります」
「それは持ち物検査では没収できないな」
サイラスは苦笑した。
馬車が動き出す。
王都の街並みを抜け、白亜の王宮が近づいてくる。
尖塔。
高い壁。
大広間の屋根。
リゼットは窓の外を見た。
王宮。
王太子。
禁書庫。
どれも、まだ目的地ではない。
今日の目的は一つ。
王宮という巨大な術式環境を、触れずに見ること。
そして、未知補助線の再現条件に使える比較材料を探すこと。
「……行きましょう」
リゼットは静かに言った。
「王宮へ」
六歳の悪役令嬢を乗せた馬車は、石畳の道を進んでいく。
その内ポケットに入っているのは、交渉材料ではない。
小さな模型紙片、一枚。
世界にまだ認められていない問いの、最初の欠片だった。




