マリー、ドレスを選ぶ(諦めながら)
六歳の誕生日から、数日後。
シルヴァーヌ侯爵家の令嬢の私室には、色とりどりの布が広げられていた。
絹。
サテン。
薄いレース。
銀糸。
小さな真珠。
王都でも評判の仕立屋が、針子を連れてずらりと並んでいる。
そして、その中央でマリーが燃えていた。
「お嬢様。本日は、王宮の夜会に備えたドレス選びでございます」
声が強い。
目も強い。
六歳になったばかりの侯爵令嬢が、王宮の夜会に出る。
それは社交界デビューの前哨戦のようなものだ。
マリーとしては、絶対に失敗できない。
なお、当のリゼットは机に向かっていた。
「聞いています」
「聞いている方は、こちらを向いてくださいます」
「合理的ですね」
リゼットはしぶしぶ顔を上げた。
机の上には、王立学院へ送るために整えた報告書の控えが置かれている。
題名はこうだ。
『未知補助線および旧式術式に関する予備報告』
マリーは見なかったことにした。
今日はドレスの日である。
ドレスの日でなければならない。
「では、まずこちらを」
仕立屋の女将が、淡い桃色の生地を掲げた。
柔らかく、可愛らしく、六歳の令嬢にはよく似合いそうな色だった。
「胸元にレースを重ね、背中に大きなリボンを──」
「却下します」
リゼットは即答した。
女将の手が止まる。
「理由をお聞きしても?」
「背中のリボンが大きすぎます。椅子の背に干渉します。壁際で姿勢を低くした時にも邪魔です」
「壁際で、姿勢を低く……?」
「王宮の壁面下部に魔法陣が刻まれている可能性があります」
「お嬢様」
マリーが即座に割って入った。
「本日は、王宮の魔法陣を観察するための装備選定ではございません。ドレス選びでございます」
「ドレスは装備です」
「違います」
「身体に装着し、行動性能に影響を与える布製構造物です」
「説明されると負けそうになるので、おやめください」
仕立屋の女将が口元を押さえた。
笑っている。
プロである。
「では、お嬢様。ご希望は?」
「動きやすいこと。視界を遮らないこと。床に近づいても裾が邪魔にならないこと。袖口が広がりすぎないこと。資料を隠し持てる内ポケットが一つあること」
「内ポケット」
マリーの声が低くなった。
「何をお持ちになるおつもりですか」
「報告書の要約版です」
「夜会に?」
「念のため」
「念のためで、夜会に報告書を持ち込まないでくださいませ」
「では、折り畳めるサイズにします」
「そういう問題ではございません」
マリーはこめかみを押さえた。
だが、ここで引くわけにはいかない。
ドレス選びは侍女の戦場である。
「女将。形はすっきりと。裾は軽く。袖口は細めに。ただし、侯爵令嬢としての品格は絶対に落としません」
「承知いたしました」
「色は」
マリーは反物の中から、一枚を選んだ。
淡い紫。
光を受けると、銀を一滴落としたように静かに輝く絹だった。
「こちらで」
女将が目を細める。
「お嬢様の髪と瞳に、よく合いますわ」
「はい」
マリーは静かに頷いた。
リゼットは生地を見た。
「観測の邪魔にはならなさそうです」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めています」
「では、ありがたく」
* * *
採寸が始まった。
リゼットは台の上に立たされ、針子たちに腕を上げたり下ろしたりさせられている。
「お嬢様、もう少し腕を横に」
「はい」
「苦しくありませんか?」
「呼吸効率に問題はありません」
「こきゅうこうりつ……」
針子の一人が小さく呟いた。
マリーは優雅に微笑んだ。
「お気になさらず。お嬢様は、体調が良いという意味で仰っています」
「翻訳が必要なのですね」
「はい」
必要だった。
その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
家令が入ってきた。
手には、封蝋のされた一通の手紙。
「旦那様宛ですが、至急お嬢様にも確認を、とのことです」
サイラスの筆跡で、小さく添え書きがある。
『学院から返答が来た。落ち着いて読め』
落ち着いて読め。
その一文で、マリーの胃が先に反応した。
「……お嬢様」
「読みます」
リゼットは台の上に立ったまま、封を切った。
針子たちが採寸の手を止める。
手紙は、王立学院の魔法理論研究室からの返答だった。
『貴家より送付された予備報告書について、内容を確認した』
『照明陣および灌漑陣における改善値は興味深い』
『ただし、未知補助線に関する記述は、現時点では根拠不十分である』
『二重化挙動についても、当研究室では再現できなかった』
『また、エミール・ガラン氏の確認印については、同氏の過去の研究傾向を鑑み、参考意見に留める』
『従って、未知補助線に関する仮説は、正式議題として採用しない』
部屋が静まり返った。
仕立屋も。
針子も。
マリーも。
誰も、言葉を出せなかった。
六歳児の報告書だから笑われたわけではない。
完全に無視されたわけでもない。
しかし、一番重要な部分だけが削られていた。
未知補助線。
二重化。
別層の魔法陣。
そこだけが、根拠不十分として落とされた。
「……お嬢様」
マリーがそっと声をかけた。
怒るだろうか。
泣くだろうか。
さすがに傷つくだろうか。
リゼットは、手紙をもう一度読んだ。
一行目から。
最後まで。
指先が、ほんの少しだけ紙の端を強く押さえた。
薄い羊皮紙に、小さな皺が寄る。
机の上に落ちていた封蝋の欠片が、リゼットの手の中でぱきりと割れた。
「……少し、期待していました」
小さな声だった。
「それと、エミールの名前が減点材料になったことは、不愉快です」
その本音は、一瞬だけ出て、すぐに引っ込んだ。
それから、リゼットは静かに言った。
「再現できなかったのですね」
「え?」
「学院は、二重化挙動を再現できなかった。ならば、彼らにとっては存在しない現象です」
声は落ち着いていた。
だが、目が冷えている。
怒りではない。
悔しさでもない。
計算が始まった目だった。
「エミールの確認印も、信用補強には不十分。むしろ異端扱いで減点材料になった可能性があります」
マリーは胸を痛めた。
エミールの名前を見て軽視された。
それを、リゼットはもう理解している。
「お嬢様。悔しくは……ありませんか」
「あります」
即答だった。
マリーが息を呑む。
「ですが、悔しさは証明になりません」
リゼットは手紙を折りたたみ、机へ置いた。
「必要なのは、誰がやっても同じ結果が出る模型術式です。学院が失敗したなら、学院でも再現できる条件に落とし込めばいい」
「つまり」
「報告書の次は、再現実験です」
リゼットは台の上から、針子の方を見た。
「採寸を続けてください」
「え、あ、はい」
「ただし、内ポケットは少し大きくしてください」
マリーがぴくりと反応した。
「お嬢様」
「再現用の模型紙片を入れます」
「夜会に?」
「念のため」
「念のためが増えました」
「重要です」
マリーは深く目を閉じた。
今日は良い日だと思っていた。
朝までは、確かに良い日だった。
だが、今は違う。
研究の壁が、王立学院という形で目の前に立っていた。
* * *
夕方。
採寸が終わったあと、リゼットは机に向かっていた。
淡い紫のドレス案は、マリーと仕立屋によって静かに進められている。
しかし、リゼットの関心はすでに別の場所にあった。
新しい羊皮紙の上に、題名を書く。
『未知補助線・第三者再現用模型術式』
その下に、条件を書き出す。
『出力:実物の百分の一以下』
『属性:光、水の両方で比較』
『補助線:削除版、追加版、位相ずらし版』
『観測項目:二重化の有無、発生時間、魔力消費、残留線』
『目的:学院でも再現可能な手順化』
リゼットは羽ペンを止めた。
学院は認めなかった。
未知補助線は、正式議題から外された。
エミールの名前は、むしろ疑いの目で見られた。
それは失敗だ。
だが、失敗は情報である。
「……なるほど」
リゼットは小さく呟いた。
「理解されない場合は、理解できる形まで分解すればいい」
マリーは、少し離れた場所からその背中を見ていた。
小さい。
まだ六歳。
それでも、背中は折れていなかった。
少しだけ、怖い。
少しだけ、誇らしい。
「お嬢様」
「なんですか」
「ドレスの内ポケットは、一つだけです」
「二つ必要です」
「一つです」
「片方に模型紙片、もう片方に記録用紙を」
「一つです」
マリーは譲らなかった。
リゼットは少し考えた。
「では、記録用紙は袖口に」
「お嬢様」
「冗談です」
「今の間は、本気でございました」
リゼットは答えなかった。
王立学院は、まだこちらを見ていない。
見ても、信じていない。
ならば、見ざるを得ない形にする。
それが次の研究課題だった。
六歳の悪役令嬢は、初めて研究の壁にぶつかった。
そして、壁を壊すのではなく、まず測ることにした。




