帰還
「邪魔をしないで。あなたたちにとってはどうでもいいでしょう、こんな犬小屋ごとき」
跪くカシワギを傲然と見下ろしながら、少女は冷淡に言い放った。
「この社はかつてのこの地の民との親睦の証。朽ちて森に還るならともかく、斯様に魔獣の血で穢れること、見過ごせませぬ」
カシワギは視線を上げ、少女の瞳を見据える。人狼の鋭い眼光の中には、警戒心と恐怖心がありありと見て取れる。
「くだらない。せっかく肉の身体の感触を愉しんでいたのに……とんだ興醒めだわ」
「恐れながら、女神よ。その身体は貴女様の敬虔なる信徒のものでございます。どうか返してやっていただけませぬか」
「ああ、厭だ、厭だ。主人に似て、無粋で堅苦しい単細胞。人の心の機微というものがまるでわからない……これは、この娘自身の望みなのよ」
「さりとて、彼女も己の破滅までは望んではおりますまい」
少女はカシワギに侮蔑の視線を送り、顔を歪めて嘲笑した。
「ふふっ、本当におめでたい、女心のわからない飼い犬だこと。こっちの迷い犬の方が余程話がわかる——そうよね?」
少女はそう言って、先程まで凄絶な死闘を演じていた血塗れの魔獣を、さも愛おしそうに撫でた。
「それでどうしましょう? まだ虐められ足りないかしら。怖い番犬が睨んでいるけれど」
「貴様と同感だ、忌月の娼姫よ。興が削がれた。こんなものはもとより呼ばれたついでの戯れ。俺には如何でも良い事だ」
魔獣の全身が炎に包まれた。
炎は激しく燃え盛り、黒煙と共に毛皮と肉の焼ける匂いが立ちこめる。
魔獣は自らの身体を己が炎で焼いているのだ。
「さらばだ、月夜見。終末の日、貴様は他の神々と共に俺に引き裂かれ、魂を噛み砕かれることになるのだ」
魔獣の恐ろしげな予言に、少女は蕩然と妖艶な笑みを浮かべる。
「楽しみにしているわ、神殺し。最期の刻、あなたの牙は、爪は、私にどれほどの苦痛を与えてくれるのかしら」
魔獣が焼け落ち崩れていくのを最後まで見届けると、少女はゆっくりと振り返る。
その場の皆が少女を取り囲んでいる。
カシワギに、狼たち。ディーン、ニャミミ、ジーク侍祭。そして、リリーと——
「ファセリアさん、戻ってきて」
立ちこめる殺意と狂気をまるで意に介さず、リョウが真っ直ぐに歩み出て少女の手を握った。
「リョウ、様」
少女は今まさに目覚めたように、目を見開いて魔術師の少年を見る。
こぼれ出た声はファセリアのものに他ならなかった。
「皆、無事だよ。もう終わったんだ。帰っておいで」
ジーク侍祭が懇願するように声をかける。
「ジーク様、私」
「もう大丈夫よ。がんばったわね、ファセリア」
リリーが近寄って、少女の身体を抱きしめる。
「リリーさん、だって私、何もできなくて」
少女は目に涙を溜め、子供のようにうわずった声で言う。
「何を言うんだ。あんたは俺たちの命の恩人だ、ファセリア」
ディーンが笑いながら少女を労い、その頭をぽんと叩いた。
「アンタねえ、この子まだ中に女神様が入ってんのよ? ちょっとは敬意を払いなさいよ」
「リリーさん、ブーメランブーメラン」
「あたしはいいの! ね、ファセリア?」
「……成程、これもまたこの娘の意思か」
リリーの腕の中で少女は呆れたように微笑んだ。
「お望み通り、私は月に帰るとしましょう。どうもこの子の気が変わったようだから」
「女神様」
ジークが少女の足元に改めて跪く。
「ジーク。この子によく言っておきなさい。月は心を映す鏡。見るものの心持ちによってその姿を変えるもの。なればこそ、その神官たる者は誰よりも心穏やかでなくてはならない——殊に、この子のような強い力を持つ人間は」
「御意にございます、女神様」
「月狼の民よ、世話をかけましたね。礼を言います」
「滅相もないことにござる。数々の御無礼、お許し下され」
カシワギは洗練された所作で頭を下げた。
「それでは、私の可愛い娘をよろしくお願いします。異邦人のおふたりと、獣神の眷属、そしてかみのエルフの忘れ形見よ」
「はっはい! ぼぼぼ僕が必ずファセリアさんを幸せにしまっす!!」
リョウの言葉に、女神は初めて慈悲深い微笑みを浮かべた。
「そういう意味ではありません」
おそらく人類史上初めて、月の女神はツッコミを入れながら天へと還って行ったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「そーいうわけで、情報屋の方はカラブリだったんにゃ。んでも、ちょっぴり気になる話は聞けたにゃ」
エスメラルダ姫の手がかりを求めて『情報屋』と接触していたニャミミは、魚と芋の揚げ物を頬張りながらモゴモゴと報告した。
冒険者の酒場へと戻ってきた一行は、ささやかな慰労の席を設けていた。
夜はすっかり更けて、日付も変わってしまっている。
「最近奴隷商の動きが活発らしくてにゃ、特に転移者の売買が増えてるそうにゃん。どうも、どっかの誰かが転移者を集めてるらしいのにゃ」
「じゃあ、最近転移者の失踪事件が増えてるのって、やっぱり?」
当事者のリョウが複雑な表情で訊く。
「そーいうことらしいともっぱらの噂にゃ。リョウもディーンも気をつけるにゃよ。攫われて奴隷になったら手が出せないにゃん、たとえユーカイの被害者でもにゃ」
「転移者は一体誰に買われているんだ?」
ディーンは顔色ひとつ変えず、次々に麦酒のジョッキを空にしている。
「わかんにゃいにゃ、奴隷売買の顧客情報は厳重に保護されてるにゃ……ムナクソ悪いけど、上客にはやんごとなき方々も多数いるからにゃ。あんなのでも一応国のお墨付き、正式に許可を得た業者にゃ。おおっぴらにはしてないけどにゃ」
ニャミミはディーンの問いに答え、不機嫌そうに魚の骨をガジガジかじっている。
「奴隷商といえば港湾都市ゼパルマの闇市の目玉にゃ。商品は国中からあの町に集められて競売にかけられるにゃ。もしもお姫様が攫われたんだとしたら、そこにいるか、いた可能性が高いにゃん」
つい先程ファセリアの口から聞いた町の名を再び聞き、ディーンとリョウは顔を見合わせた。
「決まりましたね、ディーンさん。やはりゼパルマに行ってみましょう」
「ああ、そうしよう。ニャミミ、ご苦労だった。今日は俺の奢りだ。何でも食って、飲んでくれ」
「にゃにゃにゃ〜!! あんがとにゃ! メディアちゃん、揚げ魚と、白身魚の炒め煮と、鰊のパイも追加にゃ〜!!」
「はいはい、順番にお作りしますからね。皆さん、今回も随分とご苦労なされたようですね」
空いた食器を片付けながらメディアが声をかけてくる。
「神殺しの魔狼ガルム。神々やかみのエルフたち、獣神や森の王と並ぶ原初の存在のひとつです。先日の魔族といい、なんでそんなものとひょいひょい出会うんですかねえ」
メディアは、少し呆れたようにそう言って苦笑した。
「こっちがききてえわよ!! 多分この筋肉肉団子のせいだわ!! マジ迷惑! この調子じゃ命がいくつあっても足りないっつーの!!」
すでにべろんべろんに酔いが回ったリリーが木のジョッキをテーブルに叩きつけながら管を巻いている。
「やはりそうなのかもしれませんね。ディーンさんはなんらかの宿命を背負っておられるのかも」
「確かに、バルザーンの奴と戦ってからというもの、おかしなことばかりだ。おかげで退屈はしないが」
考え込む仕草をするメディアに、ディーンはあっけらかんと答えた。
「そ・ん・な・こ・と・よ・り、報酬よ!! あんなヤバいもの撃退したのよ!? メディアちゃん報酬ちょーらい!!」
「それが、その……今回の件は、ウチを通さずに皆さんが独自に解決されたものですから、申し上げにくいんですが、ウチからは報酬が出せなくて」
「うっっそでしょ!? 町を一つ救ったと言っても過言じゃないのに、た、タダ働き!? ひどいよぉぉお! メディアちゃんなんとかしてよおぉお!!」
申し訳なさそうにしているメディアの脚に、リリーが泣きながらすがりつく。
「も、もちろん事が事ですから、上にも相談してみます。くっ、国のほうにも掛け合ってみましょう。きっ、きっ、きっと、金一封ぐらいは、たぶん、なんとか……ぐぎぎ」
メディアはなんとかリリーを引き剥がそうと苦心している。
「リリーさん、いいじゃないですか、みんな無事だったんですから」
リョウの能天気な言葉に、リリーの顔色が変わった。
すっくと立ち上がると、神妙な顔でつかつかと歩み寄り、リョウの肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「なあ少年、誰が無事だったって? あんたなんかこの丸鶏の炙り焼きぐらいこんがり焼けちゃってさ、バカよね、フラれた相手、かばっちゃって! てか、助けたらワンチャンあると思った!? ワンちゃんじゃなくてオオカミだっつーの、ガハハ!!」
「うえぇぇ、タチ悪ぅい……」
酒席にかこつけたウザ絡みに直面し、リョウはげんなりしている。
「勇敢だったぞ、魔術師殿。恋に破れ、死にかけ、生まれ変わった男の前途に乾杯だ!!」
ディーンは陽気に本日何度目かの乾杯の音頭を取る。
「かんぱーーーーい!!!」
「カンパイにゃーーー!!!」
「ファセリアさんのことは、もういいんですよ!」
「なーに? もうあきらめんの? それとも日和った? あの子の保護者はマジもんの女神様だもんねえ」
酒臭い息をリョウに吐きながらリリーが訊く。
「だってファセリアさんマジ聖女ですもん! 他に男が発覚したんなら闇堕ちも辞さないですけど、ファセリアさんは女神様一筋、清らかな乙女確定! 解釈一致!! 全然推せるじゃないですか!! どんどんお布施しちゃいますよぉ〜!!」
「いやいやいやきもいきもいきもいきもい無理無理無理無理」
あまりのきもちわるさに一瞬にしてすっかり酔いが醒めて、リリーは青い顔を左右に振っている。
「こいつのこういうとこがダメダメなんだろにゃ〜」
ニャミミは諦めの表情で深いため息をついた。




