魔獣
日が落ちて、周囲はすっかり暗くなっていた。
小さな石造りの古い社は外壁や柱が所々崩れ、苔むしている。
入り口には崩れかけたアーチがかかっており、そこに取り付けられていたであろう門扉は、今は完全に取り払われている。
入ってすぐの所はファセリアの言葉通り礼拝堂になっていて、最奥に小さな石の祭壇だけが残されている。
その祭壇の前に、牛や馬よりさらに一回り大きな狼がうずくまっていた。
一見すると眠っているようにも見えるが、灰黒色の毛皮に包まれた身体からは陽炎のように瘴気が立ち昇っており、刺すような強烈な殺気が絶えず周囲に向けられている。
その禍々しい姿にリョウは思わずたじろぎ、息を飲んだ。
狼の姿をした魔獣にはいくつか心当たりがあったが、それはそのどれとも違っているようだった。
物怖じしない様子でファセリアが歩を進める。入り口をくぐり、屋内へ踏み入れたところで魔獣はゆっくりと首をもたげた。
血のように赤い鬣が顕になる。
凶暴性と知性の両方を宿した金色の瞳で、威嚇するようにファセリアを凝視する。
魔獣を包む瘴気がよりいっそうその濃さを増し、殺意が低い唸り声と共に空気をびりびりと振動させた。
「人間の餓鬼、ラクタリスの奴婢か。美味そうだ」
魔獣は流暢な西方語で言った。裂けた口の端が歪み、鋭い犬歯が剥き出しになる。
「……言葉が解るのですね。ここに先刻、人間の神官が来たはずです。彼をどうしました」
ファセリアは徒手のまま、驚くでも怯えるでもなく、ただ静かに尋ねた。
「あれは俺の獲物だ。俺が喰らう」
「彼は私の仲間です。お前に渡すわけにはいきません」
「知ったことか。餓鬼、貴様の身体を引き裂き、血の滴る心臓を喰らうぞ」
そう言って魔獣は身体を起こした。体高はファセリアの身長の倍ほどもある。
「我が身はラクタリス様の貢物。下賤な獣の腹を満たすためのものではありません」
ファセリアは白鞘の小剣を抜き放った。刀身が青白く光り輝き、りんと音を立てた。
魔獣は不快そうに唸ると、突如少女に飛びかかった。
ファセリアは素早く横に跳んで魔獣の爪を紙一重で躱すと、その前脚に斬りつけた。
月の女神の加護を受けた刀身は魔獣の毛皮を容易く切り裂き、血飛沫が舞う。
魔獣は身体の向きを変え、その両爪と牙でファセリアを捕えようとするが、彼女は木の葉のように悉くそれを躱し、魔獣に傷を負わせてゆく。
魔獣の意識が完全にファセリアに向けられた所に、先ほどリリーの呼び出した光の精霊が軌跡を残しながら飛んでいった。
精霊は主であるリリーにあらかじめ命令を与えられている。すなわち「この少年の言葉に従え」と。
『光よ、爆ぜろ!』
リョウの発した短い精霊語の一節と共に、精霊は目も眩むような白光を放った。
正面からそれをまともに受けた魔獣は視力を失い、ファセリアから距離を取ろうとする。
同時にディーンが猛烈な勢いで駆けて行くと、身体を捻り、手にした投網を放る。
魔力で強化された投網は空中で綺麗に広がり、見事に魔獣の巨躯を捕らえた。
空気を引き割く音と共に投網に強烈な電撃が走る。魔獣の苦しげな咆哮が響き渡った。
ディーンは間髪入れず銛を構え、仰け反った魔獣の喉元を突こうとする。
その時、魔獣の口から紅蓮の炎が吐き出された。
炎はリョウの掛けた防護魔法によって妨げられ、ディーンの鼻先で左右に散らされた。
「助かったぞ、魔術師殿!」
ディーンはその熱に顔をしかめながら、銛を放ち、魔獣の左目に突き刺した。
魔獣は絶叫を上げながら、投網を破ろうと暴れている。
その背後から投げナイフが放たれ、後脚に突き刺さった。
『慈悲深くも峻峭なる杜の王。穢れを祓いて大地へ還し給え』
リリーの精霊語と共に、突き刺さったナイフから無数の枝と蔓が伸び、魔獣の体に絡みついた。
凄まじい速度で成長した植物たちが魔獣の体に根を張り、その生命力を吸い上げ、さらに枝葉を茂らせる。もがき苦しみながら魔獣は徐々に動きを鈍らせ、やがて動かなくなった。
祭壇の横の細い通路から、壮年の神官を伴ったリリーが姿を現した。
「ジーク様!」
ファセリアの顔が綻んだ。安堵の声を上げ、神官に駆け寄って行く。
いかに剣の心得があったところで、彼女は戦士ではなく、ただの14の娘である。よく知る者の無事を確認し、僅かに気が緩んでしまった。
突如、魔獣の体から炎の爆発が起き、爆風に彼女の小さな身体は吹き飛ばされた。
「ファセリア!!」
「リョウ!!」
ジーク侍祭とリリーの悲痛な声が響いた。
礼拝堂の壁に打ち付けられたファセリアは、すぐに意識を取り戻した。額から一筋血が流れ、頰を伝った。
ぼやけた視界の中、目の前にリョウが立っている。
若い魔術師は仁王立ちしたまま魔獣を睨み、両腕を突き出している。
その手に握られていた杖が、彼の右手ごと黒煙を上げながら燃え尽き、床に落ちた。
「リョウ様!!」
すぐに事態を把握したファセリアが悲鳴を上げる。
リョウはゆっくりと彼女を振り返り、笑った。
「よかった、なんとか間に合いました……」
そのまま目を閉じ、リョウはゆっくりと膝から崩折れた。
「リョウ様!! リョウ様……!!」
声を上げ、涙を流しながらファセリアがそこに這って行く。
「リリーさん、2人は私が! 魔獣の足止めを!」
「わかった、お願い!!」
駆け出したジーク侍祭を庇うように動きながら、リリーは怒りに満ちた瞳で魔獣を睨みつけた。
魔獣は身の毛のよだつような遠吠えを上げた。纏わりついた枝や根は一瞬にして燃え尽き灰になった。真紅の鬣が炎となり轟々と燃え盛り、黒煙と共に瘴気を噴き出している。
『我が怒りは汝の怒り。漆黒の牡牛、怨敵を粉砕せよ』
社の天井を砕きながら漆黒の球体が魔獣の背に落下する。空気の振動する低い音が響き、球体は魔獣の体を押し潰す。
「こっちだ、犬ころ!!」
ディーンは少しでも魔獣の気を引こうと、怒声を上げながら魔獣の脇腹に剣を突き立てた。
「ファセリア、無事ですか」
「ジーク様、リョウ様が、リョウ様が!」
ジークは狼狽している少女を注意深く観察する。明らかに意識が朧げで、半狂乱のような状態だ。女神の奇跡を起こすことは難しいだろう。
続いてファセリアの膝元に倒れている少年を診る。全身に火傷を負い、特に両腕の損傷が酷い。奇跡を用いて、仮に命を取り留めても元通りにはなるまい。
「天空に御座す御方、我が主よ。どうかこの者の肉体と魂を癒し給え」
ジーク侍祭は勇敢な少年を救うべく、全霊を込め幾度も繰り返し女神に奇跡を祈った。
◇◇◇◇◇◇
「何なのこいつは!! 攻撃が効いてない!?」
リリーが焦りを滲ませながら声を上げた。
「妙な感覚だ。傷は与えているが、効いていない、いや、気に留めていないように見えるな」
ディーンが怪訝そうに答えた。
確かに、すでにかなりの傷を負わせているはずだが、魔獣はそれで怯んだり動きが鈍るということがないようだ。
まるで己の生死に無頓着なように見える。
「ずいぶんと我慢強い犬ね」
「息の根を止めれば我慢もクソもなかろう」
「じゃあ、それで」
2人は左右に別れ、魔獣の側面へと駆ける。
『天翔ける白き翼、絢爛たる精霊の帝。我が右手に宿りて邪を切り裂く刃となれ』
リリーの右手から身の丈ほどの長さの光の長剣が現れた。
振るわれる魔獣の鉤爪を躱しながら、踊るように華麗な動きで幾度も斬り付ける。
光の刃は恐るべき切れ味で魔獣の脚と胴体に深々と傷を負わせ、毛皮を血で染めていく。
魔獣はリリーを脅威と認め、炎を吐こうと上体を仰け反らせた。
その瞬間を待ち構えていたディーンが素早く魔獣の胸元に潜り込み、その心臓目掛け、渾身の力で剣を突き出した。
「おおおおおおぉぉぉお!!」
魔獣の胸に深々と剣が突き刺さり、鮮血が間欠泉のように吹き出し、ディーンの全身を真っ赤に染めていく。
動きを止めた魔獣は口の端から炎を上げながら、ゆっくりと地に伏した。
「やったか?」
忌々しげに顔の血を拭いながらディーンが訊いた。
「……精霊の働きは止まってるから、多分。念の為首を落としておきましょう。それよりリョウは……」
リリーは答えて礼拝堂の入り口付近に視線を送る。
ジーク侍祭が懸命に癒しの奇跡を施している横で、ファセリアが呆然としたまま俯いている。
心臓が凍るような気持ちがした。
あのファセリアの様子、あれではまるで————
「畜生、どうなってやがる」
ディーンの吐き捨てるような言葉に、リリーは我に返った。
ディーンは社の入り口の方を睨み、剣を構えている。
恐る恐る視線を辿ると、社の外に、巨大な黒い影がある。闇の中、その鬣がめらめらと燃え盛っている。
それは、つい今しがた死闘の末討ち取ったはずの魔獣の姿だった。
「うおおおおぉおおおお!!!」
新手の現れた位置は、リョウ達のすぐ近くであった。ディーンは魔獣の社への侵入を防ぐべく捨て身で突進した。
「バカ!! 無茶よ!!」
リリーはなんとか援護しようと、手をかざし精霊語を唱えようとするが、全身の力が抜けへたり込んでしまう。限界を超え、短時間に大きな力を使いすぎたのだ。
「ディーン……」
声すら出せず、掠れる目でリリーはディーンの背中を見る。
いかに屈強の戦士といえども、いくつもの傷を負い、疲労の色が濃く、その動きは普段より緩慢に見えた。
あれでは、それほど持たない。
「ジーク!! ファセリア!! リョウを連れて、今のうちに逃げて!!」
絶望を覚えながらも、リリーはなんとか声を上げる。
「しかし、リリーさん……」
「いいから! ここはなんとかする! あなた達を守る余裕がないの! 急いで!!」
ジークの言葉を遮って言い放つ。
その言葉はほとんど強がりではあったが、全くのはったりというわけでもなかった。
精霊力を使い果たしたリリーにも、まだ使える力が残っている。それは、半妖精である彼女自身の生命の力だ。
もっとも、それを使ってしまえば、リリーは半妖精としての姿を保てなくなる。小さな精霊となって、風や草木に、大地に——自然に還ることになるだろう。
魔獣の攻撃にディーンが吹き飛ばされ、大地を転がった。
それでも戦士はすぐに起き上がり、怪物に立ち向かっていく。左腕がもう動かないようで、力なく垂れ下がっている。
吐き出された紅蓮の炎を掻い潜り、魔獣の口に剣を突き刺す。
魔獣はその刀身を無慈悲に噛み砕いた。
リリーは決心を固めた。
目を閉じ、意識を集中させる。
彼女にとって生命とは、形を変えながら巡るものでしかない。死んだ生き物は土に還り、草木を生い茂らせ、動物がそれを喰む。
だから、死を恐れてはいない。
けれど、ほんの少しだけ寂しさを覚え、そしてそんな自分の心持ちが意外に思えて、リリーはうっすらと微笑んだ。




