第37話 帰り道
エレナの身体が、わずかに沈んだ。さっきより重い。しかも加速している。
エドが着地した瞬間、また消えた。赤黒い残影が街道の中央で明滅する。
拳。肘。膝。蹴り。型がない。だが速すぎる。
エレナが一撃を弾く。だが次の瞬間には、反対側から別の打撃が迫る。ヒールが地面を抉り、周囲のガラスが砕ける音が連なった。
ガシャンッ、と。大量のガラスが頭上から降り注ぐ。群衆の悲鳴。
「リヴィラ!」
エレナが叫ぶ。
リヴィラの手が上がった。淡紫の光が落下するガラスを空中で捉え、粉末に砕く。
その隙に。
ドゴッ。
エドの拳が、エレナの頬を掠めた。
エレナがゆっくりと頭を戻す。唇の端に、赤い線。目から温度が消えた。
ドォンッ。蒼い闘気が、エレナの全身から爆発した。
エドの身体が沈む。何万トンもの重さが圧し掛かる。膝が折れ、地面が放射状に割れた。
エレナが歩いてくる。影が、エドの全身を覆った。
「お母様にだって、叩かれたことがないのに」
手が上がる。エドの顔へ向けて、無慈悲に振り下ろされる。
その時、影が割り込んだ。
ガッ。
龍威が正面から受けた。足が数十センチ滑る。口元に血が滲んだ。だが、退かなかった。
「……それ以上はやめてもらおう、ユニティア閣下。これ以上やれば、騒ぎを大きくしているのはあんたの方だ」
エドが顔を上げた。赤黒く染まった目が震えている。
「……赤毛のトカゲ……」
「黙ってろ」
龍威が振り返らずに凄んだ。
「シルウィード様に、お前を拾ったのが間違いだったと思わせる気か」
エドの身体が強張った。
「明日、ルーシー様が来る。牢の中で姉さんに会いたいのか」
その言葉に、赤黒い電弧が少しずつ褪せていった。荒い息だけが続く。
数台の警備浮遊車が駆けつけた。魔導銃が一斉に向けられる。
「エレナ様、ご無事ですか!」
警備の一人が叫ぶと、エレナがハンカチで唇の血を拭った。赤い染みを見て、一瞬だけ目の奥に氷のような光がよぎる。
「問題ないわ。窃盗犯を一人。連邦の貴族市民に対する暴行と、重大な騒乱の扇動よ」
龍威が冷笑した。
「手を下した側が訴えるとは、たいした神経だ」
エレナは答えなかった。
拘束鎖がエドの手首に巻かれる。抵抗はなかった。頭を垂れたまま、連行されていく。
龍威は街路の端に目をやった。散乱した果物。少し離れた場所に、小さな包装箱。
屈んで拾い上げる。蓋を開けると、髪飾り。簡素だが、丁寧に選ばれたものだ。
埃を払い、そっと蓋を戻した。
◇
警備本部。明るい室内。
アナスが机の向こうに座っている。指先が、規則的にテーブルを叩いていた。
エレナは反対側の椅子にもたれ、手の中の氷の術式を腫れた頬に当てている。氷の軋む微かな音。
「なぜ、ここまでするの」
アナスが静かに口を開いた。
氷の音が、止まる。
「何のことですか、先輩」
「普段は随行員すら面倒がる人が、今日に限って警備を連れて出歩いた。しかも、ちょうどあの場所に」
アナスの指先が、強く卓を打った。
「最初から、あの子を狙っていたでしょう」
エレナがゆっくりと目を上げた。
「ひどい言いがかりですね。財布も胸飾りも、全部あの子の手元から出てきた。それが事実です」
沈黙。
「あの店員の記憶を探れば、事実は変わるかもしれないわね」
空気が凍った。エレナの呼吸が、一拍乱れる。だがすぐに戻った。
「未許可の記憶探査は、違法な証拠収集です。セリーヌ様であっても、連邦の規定は曲げられないはずですが」
二人の視線が、明るい照明の下で静かにぶつかった。
◇
警備本部のロビー。自動扉が開く。
「エド!」
ネフリが駆け寄った。
「大丈夫? 怪我は?」
龍威が片手を上げた。
「大したことない」
ネフリの視線が、龍威の頬に止まった。赤く腫れている。
「あなたの顔……」
「大丈夫だ」
龍威が素っ気なく目を逸らした。
ネフリの目がエドに移った。少年は頭を垂れていた。何も見ていない、虚ろな目だった。
ネフリの唇が動きかけたが、龍威が小さく首を振った。
「……今は、そっとしておいてやってくれ」
ネフリは黙った。目の奥にかすかな痛みが走ったが、何も言わない。
龍威の横に寄り、声を落とす。
「あとで、何があったか教えて」
龍威は無言で頷いた。
扉が再び開いた。アナス、エレナ、リヴィラが現れる。
ネフリの視線がエレナを捉えた。エレナも気づく。
一瞬、空気が止まった。
「行くわよ」
アナスが静かに言った。
ネフリが視線を外し、エドの肩にそっと手を置いた。
「……帰ろう」
エドは何も答えず、ただ歩き出した。
◇
浮遊車が遠ざかる。
エレナが見送り、口を歪めた。
「見た目はまともなのに、趣味は悪いわね」
「今回……少しやりすぎたんじゃない?」
リヴィラが少し言い淀んだ。
「目的は達したわ。連邦の目は、あの小僧に向く」
「……私が言いたいのは、そこじゃなくて」
エレナがちらりと目を向ける。
「あの子、ただの人間でしょう。……なのに、なぜあんな力が?」
エレナは黙った。
脳裏に、さっきの光景がよぎる。赤黒い電弧。変色した瞳。
「……さあね」
低く舌打ちをする。
「帰るわ。今日はうんざり」
二歩歩いて、足を止めた。
「そうだ。しばらく、ヴィスを表に出さないで」
「え?」
「念のためよ。アナス先輩は、この件を簡単には諦めない」
◇
夜。エンフェルターニャ邸。
リヴィラが玄関を入ると、執事が寄ってきた。
「お嬢様。ヴィスが戻りましたが……様子がおかしいのです。部屋に閉じこもったまま、何度呼んでも反応がなく」
リヴィラの表情が変わった。
ヴィスの部屋の前。ノックする。返事がない。もう一度。沈黙。
リヴィラの瞳に淡い紫の光が灯った。錠が外れ、扉が開く。
ヴィスは床に蹲っていた。両手で頭を抱え、全身が震えている。
「どうしたの!?」
リヴィラが駆け寄り、抱き起こす。
「痛い……頭が……ずっと、声が……」
「声? 誰の声?」
ヴィスは激しく首を振る。
「分からない……」
リヴィラの顔色が変わった。ヴィスをベッドに移す。
「動かないで。医者を呼ぶから」
部屋を出た。扉が閉まる。
静寂。
ヴィスは蹲ったまま、瞳が小刻みに揺れていた。
ぼやけた視界の奥。黒と白の筋が絡み合い、歪み、蠢いていく。
その深淵から。
低い笑い声が、湧き上がっていた。
「……誰」
震える声。
返ってきたのは、さらに鋭く、狂った笑い声だけだった。




