第35話 仕組まれた舞台
街道の一角。
華やかに飾り付けられた店舗の前で、きらびやかな衣装の"サキュバス"が、ゆらゆらと身体を揺らしていた。
上半身は優雅に微笑んでいる。だが下半身に脚はない。広い裾の底が球状になっていて、地面に吸い付くように収まっている。
「あれは? 特殊な種族ですか」
エドが足を止めた。
「演出用の装置だ。いわゆる『起き上がりこぼし』さ。底に重心が固定されていて、どれだけ揺らしても倒れない」
龍威が素っ気なく言う。
「底に重心……倒れない……」
エドはしばらく眺め、首を傾げた。
「不思議な仕組みだな」
「あそこに装飾品の店がある。入るか」
「うん」
◇
店内は光が柔らかかった。
ガラスの陳列台に、細工の施された飾りが並ぶ。値札を一瞥して、エドの足音が自然と軽くなった。
視線を巡らせるうち、一つの胸飾り《ブローチ》に目が止まった。
「すみません、これを見せていただけますか」
カウンターの向こう。店員と目が合った。だが店員は一度だけエドの顔を冷たく見て、そのまま手元の作業に戻る。
無視されたエドの指先が、わずかに縮まった。
「これと、こっちの三点。出してくれ」
龍威がいつの間にか横に立っていた。店員は一瞬だけ固まり、すぐに営業の笑顔を浮かべた。
「かしこまりました」
トレイが出てくる。さっきの無視が、なかったかのように。
「……これにします」
エドが選んだのは、ガーネットの翼をあしらった銀の胸飾りだった。
店員が手に取ろうとして、一瞬だけ動きが止まった。値踏みするようにエドの顔を見ている。
龍威が無言で手首を上げた。腕輪が微かに光り、紋章が一瞬浮かぶ。シルウィード家の印。
「……かしこまりました」
店員の態度が急変した。包装は丁寧だった。
エドは箱を受け取り、指に少しだけ力を込めた。
「……ありがとう」
龍威はもう背を向けていた。
「行くぞ」
◇
店を出て、通りを歩く。
「……すまない。迷惑かけてるな」
エドの謝罪に、龍威は足を止めた。
「お前、実戦訓練のとき、俺に何て言ったか覚えてるか」
「え?」
「こんなことで落ち込むくらいなら、連邦を出た方が楽だろうな」
エドは黙った。数秒。
「……そうかもな」
声は小さいが、揺れてはいなかった。
龍威は何も言わず、歩き出した。
エドが追いつく。視線が、手の中の袋に落ちた。
(ルーシー姉さん……喜んでくれるかな)
そんなことを考えた、その時だった。
背後に、気配。軽い。足音がほとんどない。
反射的に身を引き、振り返った。
――とん、と。胸元に、柔らかいものがぶつかった。
「きゃっ――!」
猫耳の少女が半歩よろめいた。
「な、何するんですかっ!」
「ごめん、そんなつもりじゃ――」
言いかけて、止まった。
金色の瞳。
視界に入った瞬間、世界が遠くなった。
街の音が沈む。動きが止まる。金色だけが、やけに鮮明で――。
「おい」
肩を叩かれた。一瞬で世界が戻った。
龍威が横に立ち、眉を寄せている。
エドはさっきの方向を見た。誰もいない。
「……今、誰かにぶつかられたんだ」
「誰もいないぞ。気のせいか?」
違和感が消えない。だが、証拠もない。
数歩歩いて、エドは足を止めた。袋の重さが、さっきと違う。
中を開ける。果物。髪飾り。胸飾り。全部ある。
だが。見覚えのない小さな財布が、一つ入っていた。
開くと、金貨が整然と並んでいる。手のひらが冷たくなった。
「……何だ、これ」
「お前が買ったのか」
「違う」
龍威の表情が変わった。
「先に警備に――」
「――私の財布! 財布がないの!」
甲高い声が、通りを裂いた。
エドの背筋が凍った。本能的に財布を袋に戻した。
「あそこよ! あの子の手に、財布が!」
鋭い声が貫く。視線が一斉に集まった。
エドの片手が、まだ袋の中にあった。
「違う、これは――」
だが、周囲の顔色はすでに変わっていた。
「あの子……セリーヌ様が連れてきた――」
「連邦から総帥の座を奪った――」
囁きが広がる。疑念が嫌悪に変わるのは、一瞬だった。
ぞわり、と。見えない力がエドの四肢に絡みつく。民衆の敵意が、重圧となってのしかかる。肩、脚、胸。動かない。膝が折れかける。
「やめろ! この子は何もしていない!」
龍威が前に出た。だが。
「騙されるな!」
「現行犯だ!」
誰かが龍威の腕を引こうとした。触れる前に、弾かれた。
「手をどけろ」
燃えるような龍威の金の瞳から、普段の気怠さが消えていた。
その時。
「ああ、よかった……!」
場違いなほど安堵に満ちた声が、人垣の向こうから響いた。
人が割れる。暗い藍色の髪の少女――リヴィラが、裾を軽く持ち上げて小走りに駆けてきた。口元だけが、わずかに上がっている。
周囲に優雅に会釈する。
「皆さん、ありがとうございます。ご協力いただけて、本当に助かりました」
それからエドに目を落とした。驚いたように瞬く。
「あら……セリーヌ様がお連れになった方ね。……どうして、こんなことを」
声が小さくなる。
「セリーヌ様が、あんなに必死にあなたを守ろうとしているのに……」
「俺は盗んでいない。知らない間に入っていたんだ」
エドの声がかすれた。
リヴィラが怯えたように半歩、後ずさる。
「あなたと私に、接点なんてないはず。それなのに近づいてきたということは――」
声が震える。周囲に聞こえるように、はっきりと。
「まさか……連邦の貴族に、グランディ帝国のときと同じことを……?」
空気が凍った。
グランディ帝国。その一言で、周囲の感情が完全な『恐怖と殺意』に変わった。
「俺は――」
「もういい」
龍威がエドの前に立った。背中でエドを隠すように。
冷たい目がリヴィラを射抜く。
「お前、何がしたい」
「龍威……様?」
リヴィラが瞬いた。次の瞬間、彼女の身体が龍威の胸に飛び込んだ。
周囲から驚きの声が上がる。龍威の全身が硬直した。
甘い香り。耳元で囁かれる、甘すぎる声。
「ずっと探していたんです……どこに行っていたの……」
龍威の喉が詰まった。身体が動かない。腹の底から、何かが込み上げてくる。
その時。
「何を騒いでいるの」
静かな声が、空気を一瞬で変えた。
人が、自然に道を開けた。
逆光の中を、一つの影が歩いてくる。
高い背。淡い金髪。近づくだけで、周囲が無言になった。
龍威の身体が、ぴくり、と震えた。
エドも、その人影を見上げた。
澄んだ淡い青の瞳。
「……エレナ、さん?」
エレナの視線が、エドを捉えた。
一瞬だけ、止まった。
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