第34話 視線の先
扉の前で、エドは手を止めた。
一瞬、迷う。結局、コンコンと叩いた。
返事はない。しばらく待つ。
「……留守か」
踵を返しかけた、その時。扉の内側で物音がした。取っ手が動き、薄く開いた。
龍威が立っていた。髪が乱れ、半分寝ぼけた目をしている。
「……うるさい。なんだ、お前か」
「あ、いたんだ。起こしちゃったか」
エドが苦笑すると、龍威が扉に寄りかかり、大きな欠伸をした。
「お前が来るときは、いつも面倒事を持ってくる」
鋭い縦の瞳孔が、エドを観察するように細められる。
「で? その顔――世間話ってわけじゃないな」
「……そんなに分かりやすい?」
「当たり前だ」
エドは乾いた笑いを漏らした。
「修行でも技の話でもなくて。……別の、こと」
◇
「俺がなぜ、こんなことに付き合わされてるんだ」
龍威が片手をポケットに突っ込み、不機嫌そうに前を歩いている。
公都の河岸の商店街。人の波。水面に陽光が砕けている。
「悪いな」
エドが頬をかきながら続く。
龍威がちらりと振り返った。
「そういえば、浮遊車の操作くらい、部屋の端末で練習しておけ」
「え? あれって練習できるの?」
「……お前、あの端末を何だと思ってる」
「課題やるための机……?」
龍威が、信じられないものを見るような目を向けた。それ以上は何も言わず、前を向き直る。
エドは首を縮めた。
しばらく歩き、龍威が不意に立ち止まった。通りの先にある、落ち着いた佇まいの雑貨店を指す。
「あそこでいいだろう。高い物を買う必要はない。小さな物で十分だ。そのほうが相手も気を遣わずに済む」
「な、なるほど……」
エドの強張った表情が、少しだけ緩んだ。
店に入った。
木製の棚が整然と並んでいる。空気が清潔で、自然と足音が軽くなる。
エドは角の方へ歩いていった。小物を一つ手に取り、眺め、戻す。次を手に取り、また戻す。何かを壊さないようにしているみたいに。
龍威は入口近くに立っていた。
客の一人が、エドの方をちらりと見た。視線が一瞬止まり、すぐに逸らされる。低い声で何かを呟く。隣の連れが、露骨に舌打ちをした。
別の二人が、エドの傍を通るとき、不自然に間を空けて避けた。
龍威の眉が、わずかに動いた。
エドを見る。
棚の前に立っている。物を手に取り、確かめ、戻す。
だが、指先が一瞬だけ止まった。周囲の気配に気づいている。
すぐに、何事もなかったように次の品物へ手を伸ばした。
龍威の脳裏に、先ほどの言葉が蘇った。
『俺が一緒にいたら、空気が悪くなるだろうし』
あのとき、大して気にしなかった。
今、目の前で見ている。
龍威は小さく舌打ちをした。
「……面倒な立場だな」
◇
買い物を終え、通り沿いの喫茶店に入った。
エドは包みを丁寧にテーブルの脇に置き、長く息を吐いた。
「髪飾り一つで、思ったより高いな……」
龍威は答えず、グラスの氷を回していた。視線は窓の外。
「……なあ。迷惑かけたな」
龍威の指が止まった。視線が戻り、エドを二秒ほど見てから、小さく首を振った。
「別に」
指先がテーブルを一度叩く。
「向こうに果物屋がある。班の連中と宴の練習をしてるんだろう。終わった後に出してやれ。冷やしておけば、ちょうどいい」
「……なるほど」
エドの声が、少しだけ軽くなった。
「昼飯おごるよ」
「金がないくせに無理するな。それより」
龍威の声が、わずかに低くなった。
「『気導の御技』。いつまで放ったらかしにしてるつもりだ」
エドの口が閉じた。
「お前の覚悟なら、できないはずがない」
静かな声だった。
「……重いな、その期待」
「重くて結構だ」
龍威が鼻を鳴らした。空気が、少しだけ緩んだ。
◇
喫茶店を出ると、二人は人の波に呑まれていった。
その背中が遠ざかっていく。
通りを挟んだ向かいの料理店。窓際の席。
猫のように細められた目が、その背中を追っていた。
ピンクの小型端末を構え、素早くシャッターを切る。
「撮れた」
画面には、人混みの中に映る赤い髪。その隣で、小さく頭を下げているもう一つの影。
少女は軽い足取りで、向かいの席へ戻った。
「リヴィラ様、リヴィラ様。見てくださいよ」
「騒がないで、ヴィス」
向かいの少女は顔を上げなかった。フォークを置き、ナプキンで唇を拭って、ようやく視線を向ける。
端末が差し出された。
暗い藍色の長い髪。退屈そうに半分閉じた瞳が、画面を捉えた。胸元で、茨と蝶の羽を象った胸飾りが微かに揺れる。
煌めく紫の瞳に、微かな光が走る。
その視線は、赤い髪に注がれていた。
「……まだ公都にいたの」
口の片側だけが、ゆっくりと上がった。
「不思議ですよねぇ。あれだけエレナ様にやられて、まだのこのこ歩いてるんですから」
「あの時ね」
リヴィラがヴィスの言葉を遮った。声が少し緩くなる。
「地面に転がされて、見上げてきたでしょう。あの目」
指先で、自身の頬を軽く突く。
「あれだけやられて、まだ折れない。ああいうのって――従順なのより、ずっと面白いのよ」
向かいの席で、静かにカップが置かれた。
動作は優雅だった。だが、空気がわずかに変わる。
淡い金色の長髪。背筋の通った姿勢。穏やかだが、視線だけが鋭い。
彼女の目が、端末の画面に向いた。
ただし、赤い髪ではない。その隣。人混みに半分隠れた、もう一つの小さな影。
「……この子」
視線が止まった。眉が、ごく微かに動く。
「エレナ? どうかしたの」
エレナはすぐには答えなかった。もう一度、画面の隅を見た。
それから――口元が、静かに弧を描いた。
「リヴィラ」
声は穏やかだった。だが、空気の温度が一瞬だけ下がった。
「一つ、面白い計画を思いついたのだけれど。……乗ってみる気、ある?」
窓から差し込む光が、エレナの横顔を明暗に分けていた。




