第32話 空手の交渉
厨房に、匙を置く音が並んだ。
料理長と数名の料理人が、テーブルに並べられた肉じゃがを一品ずつ味見していた。
十二皿。すべて同じ盛り付け。上に乗せた半熟目玉焼きが、湯気の中でわずかに揺れている。
エドは傍に立ち、全員の表情を読んでいた。呼吸が浅い。指先が、服の裾を無意識に揉み続けている。
匙が、ぱたり、ぱたりと置かれていく。
「煮込みの味は安定している」
料理長が右端の最後の数皿の前に立ち、匙で卵をめくった。
「ただし、焼き加減にバラつきがある。底が固まりすぎているのが幾つかあるな」
「……はい」
エドは素直に頭を下げた。
料理長は咎めず、竈の上の二つの深鍋を見やった。
「ここまで仕上げられるなら、竈の前に立つ資格はある」
エドの張り詰めていた顔が、ほどけた。
「ただし」
料理長の声が低くなる。
「お前は本気で、百人分に挑むつもりなのか」
「俺一人では、無理です」
エドは迷わず答えた。
「でも、そのための準備をしています」
料理長は黙ってエドの目を見た。口元が、わずかにだけ動いた。
◇
宿舎に戻り、腕輪の記録を呼び出す。さきほどの調理工程を見直し、役割分担の案を三つ書き出した。
煮込みは複数人で仕込める。問題は卵焼きの火加減だ。
確認し、頷く。あとは――人手だ。
◇
「無理」
レーナが棒付き飴を咥えたまま、軽く言い放った。
(……やっぱりな)
エドは周囲を見た。他の班員も、困った顔で目を逸らしている。
「厨房の応援なんて、この前一回やって懲りたのよ。しかもあの料理長の下で?」
レーナが飴を指で回す。
「それに、あたしたち大広間の見回りっていう、美味しい仕事もらってるの」
他の班員も頷く。
ネフリは後方で黙っていた。ただ視線だけがエドに向いている。
エドは小さく頷いた。
「……確かに。無茶なお願いだった」
肩を落とし、背を向ける。
「悪い、忘れてくれ」
歩き出す。
「……まぁ、一人前の侍従でも逃げ出す厨房を、見習いだけでやり遂げたら……」
ぼそり、と。
二歩。
「……いや、やっぱ……」
三歩。止まりかける。首を振り、また歩き出す。
「宴には連邦中の大貴族が来るのに――」
その先は、わざと呑み込んだ。
足音が遠ざかっていく。
レーナの飴が、止まっていた。
「……ちょっと待ちなさい」
エドの足が止まる。振り返らない。
「……何です?」
「今、何て言った?」
「いや、別に――」
「座りなさい」
声が変わっていた。
エドはゆっくりと振り返った。レーナの目が、さっきとは違う光を帯びている。
戻って、腰を下ろす。
役割分担の案を見せた。一人あたりの作業量。所要時間。手順。
レーナが飴を指先で弄びながら、黙って眺めた。
「……で?」
「で?」
「あたしたちに、何のメリットがあるの」
「正直に言うと、今は何も確約できない」
エドは目を逸らさなかった。
「ただ、総管殿に掛け合うつもりです。第三班がこれをやり遂げたことを、正当に評価してもらえるように」
「確約なし、か」
レーナが飴を口に戻した。班員たちと目配せする。
それから、ネフリを見た。
ネフリは軽く肩をすくめた。目元だけが、微かに緩んでいた。
レーナが息を吐く。
「……あんたの話、聞いてあげる。でも答えはまだよ」
「十分です」
エドは深く頭を下げた。
◇
三十分後。東側塔楼、アナスの執務室。
エドの話を聞き終えたアナスは、手元のペンを止めたまま、しばらく黙っていた。
「……百人分の追加料理を、見習い六名で?」
「はい」
「前例がないわ」
「分かっています」
「失敗したら?」
「責任は、すべて俺が取ります」
アナスの指が、机を一度だけ叩いた。
「……どうして、そこまでするの」
エドは少し間を置いた。
「ルーシー姉さんに、会いたいんです」
声が柔らかくなった。
「遠い人だから。サルタリスにいて、簡単には会えない。タリア姉さんのことも、何も聞けていない」
目を伏せる。
「この機会を逃したら、次がいつか分からない。だから……姉さんが来ている間、少しでも一緒にいたい。この料理は、そのための口実です」
沈黙。
アナスは椅子から立ち上がった。
窓際へ歩く。外を見る。
しばらく、動かなかった。
指先が、窓枠を二度叩いた。
やがて、振り返る。
席に戻り、足を組んだ。
表情は変わらない。だが、目の奥に何かが定まっていた。
「まず、宴会の料理を成功させなさい」
「……それは」
「ルーシー様がどう感じるかは、その後の話。いいわね」
エドの顔が明るくなりかけた。
「ただし」
アナスの声が、一段下がった。
「失敗したら、この話は二度と持ち出さないこと」
「はい」
「第三班への評価は、結果次第。約束はしない」
ペンを取り上げ、手元の書類に目を落とした。
「でも――見なかったことにも、しないわ」
エドは深く頭を下げ、執務室を出た。
扉が閉まる。
アナスはペンを置き、頬杖をついた。
視線が、机の端に向く。
小さな写真立て。古い一枚。
まだ幼い自分。隣に、同じくらいの背丈の金髪の少女。後ろから二人の肩に手を置く、端整な顔立ちの、けれど血色のない長身の男。
「……似ているわね、ゲイノ伯」
呟きは、誰にも届かなかった。




