第31話 二人の距離
前の夜、エドは答えが見つからないまま眠れなかった。
百人分の料理。一人で。味を保ったまま。
どう考えても、無理だ。
頭を抱えてベッドに転がる。
(あと六日しかない……)
脳裏に、ネフリの顔が浮かんだ。
手伝いを頼めたら。だが――今の状態で、頼めるのか。
「……無理だろ」
呟いて、枕に顔を埋めた。
◇
翌日。
祝宴の準備で、城館中が慌ただしく動いていた。
見習い侍従も授業は中断され、舞台設営や物資整理に駆り出されている。
エドは資材を運びながら、視線が何度もネフリとレーナの方へ流れていた。
口を開きかけては、閉じる。
レーナの冗談に愛想笑いを返しながら、机の下で、爪が手の甲に食い込んでいた。
(いつからこんなに、意気地なしになったんだ)
昼になっても、一言も切り出せなかった。
食堂で、無気力に食器を返却口へ置く。
振り返ろうとした瞬間。
清涼な花の香り。
肩を、軽く叩かれた。
「ついて来なさい」
一言だけ残し、ネフリは食堂の脇の扉へと歩いていく。
心臓が、跳ねた。
(……まさか)
頭の中を、さまざまな想像がよぎる。
見限られるのか。あの『秘密』を、問い詰められるのか。
それとも――。
ネフリの背中を追い、小道を抜け、小さな中庭に出た。
木の下で、ネフリが振り返る。目が鋭い。
エドは反射的に背筋を伸ばした。
「言いなさい。朝からずっと、こっちを見てたでしょう」
「え……気づいてたんですか」
エドが間の抜けた声を出した。
「自分で気づいてなかったの?」
ネフリに呆れられ、エドは苦笑して首を振った。
「わざとじゃないんです。ただ……どう切り出せばいいか分からなくて」
ネフリは木に背を預け、腕を組んだ。黙って、先を促す。
エドは一拍ためらい、深く息を吸った。
ルーシー姉さんへの恩返しのこと。タリア姉さんの料理を届けたいこと。料理長に認められたこと。そして――百人分という壁。
話を聞きながら、ネフリは何も言わなかった。
ただ、その眉が、ほんの少しずつ寄っていく。
そして、最後に浮かんだのは――非難の色だった。
「それで? 諦めるの?」
ネフリの言葉に、エドの口が止まった。
「一人じゃ無理だから、やめるって? あなた、それで引き下がるつもり?」
「……だって、一人で百人分なんて――」
「だったら、なぜ私たちに聞かないの」
鋭い追及に、エドは言葉を失った。
「聞いてもいないのに、勝手に無理だと決めつけないで」
「……先輩、力を貸してくれるんですか」
恐る恐る尋ねると、ネフリはふいと顔を逸らした。
「難しいわ」
その一言が、胸に刺さった。
エドの膝から、力が抜けそうになる。
「二人だけで、百人分なんてできるわけないでしょう」
(二人……?)
エドの頭が、ゆっくりと上がった。
「先輩、今……二人って、言いました?」
ネフリの尖った耳が、ぴくりと動いた。
「……っ。別に、そういう意味で言ったんじゃ」
ネフリの頬がわずかに染まる。エドの顔を手で押し下げた。
「とにかく。レーナたちが手伝うかどうかは知らないわ。まず自分で、大量に作って味が変わるかどうか確認しなさい。それすら分からないのに、人に頼めるわけないでしょ」
手を離す。
「分量も手順も把握してない状態で、仮に誰かが手伝うと言っても、指示が出せないでしょう」
(……そうだ。そこからだ)
エドは顔を上げ、力強く頷いた。
「先に試してみます。すぐ戻ります」
走り出す。
その背中がすぐに角を曲がり、消えた。
ネフリの口元が、ほんのわずかに緩む。
だが、すぐに引き締めた。溜息をつき、立ち去ろうとする。
足音。
急いで戻ってくる足音。
角から、エドが飛び出してきた。
ネフリの表情が、一瞬だけ揺れた。
「どうしたの」
「あ、いや……」
エドは息を切らしたまま、気恥ずかしそうに頭をかいた。
「ありがとう、って。言い忘れてたから」
笑っていた。
明るく、まっすぐに。
ネフリは口を開きかけて、視線を逸らした。
「……私は、別に、あなたを助けたくて言ったんじゃないから」
それから、少しだけ間を置いて。
「それに……あなた、分かってるでしょう。私が本当に聞きたいのは、料理のことじゃない」
風が、木の葉を揺らした。
木漏れ日の影が、二人の上を揺れる。
沈黙。
「……あのことは」
エドが、先に口を開いた。
「正直、自分でも、まだうまく説明できないんです」
ネフリの視線が、戻ってくる。
エドは彼女の目をまっすぐに見た。
右手を胸に当てる。
「嘘をつくつもりはなかった。隠したかったわけでもない」
声は静かだった。
「ただ、言葉にできなかっただけです」
一拍置いて、告げる。
「答えが見つかったら、ちゃんと話します。だから――もう少しだけ、待っていてもらえますか」
風が止んだ。
ネフリの呼吸が、わずかに乱れていた。
右手が動きかけた。伸ばしかけて――止まる。
「……考えておくわ」
手を背中に回した。
「まだ、あなたを許すかどうか、決めてないから」
エドはしばらくネフリを見つめていた。
それから、穏やかに頷いた。
「……待ってます」
背を向け、今度こそ走り去っていく。
足音が遠ざかった。
ネフリは一人、中庭に残された。
左右を見回す。誰もいない。
両手で、そっと頬を覆った。
熱い。




