第30話 百人分の覚悟
「理由?」
エドは少し考え、顔を上げた。料理長の目を、真っ直ぐに見る。
「……理由は、ありません。ただ、姉に……もう一度、あの味を届けたいだけです」
「どんな料理だ」
料理長が、静かに見下ろす。
「肉じゃがです。半熟の目玉焼きを、上に乗せたもの」
「……は?」
料理長が、ぽかんと口を開けた。
「何を馬鹿なことを。宴の賓客に、そんな家庭料理を出すだと?」
「こんな晴れの場に、家庭料理を出すのが無茶なのは分かっています。でも――」
エドの声が、わずかに震えた。胸が上下する。
「ルーシー姉さんは……きっと、ずっと食べていないんです。タリア姉さんが……もう、作ってあげられないから」
涙が、眼の縁に溜まった。
落ちなかった。
料理長は、エドを見つめたまま黙っていた。
やがて、手を振って背を向ける。
「この件は、私一人では決められない」
エドの心臓が、沈む。
「ただし」
料理長が、振り返らずに言った。
「総管殿が許可を出すなら――その料理は、お前自身の手で作れ」
「俺、自身の手で……」
呟いて、エドの口元がゆっくりと緩んだ。
深く頭を下げ、立ち上がる。
「別に、許したわけじゃないからね」
料理長はそう言い残し、厨房の奥へ消えた。
エドは一礼し、宴会棟を後にした。
◇
東側塔楼、アナスの執務室。
交差した脚がわずかに揺れ、指先が机を叩いている。リズムが、時々乱れる。
アナスの困り顔を見つめながら、エドは声を出せなかった。
しばらくして、アナスが立ち上がった。
「明日の午後、まず一品作りなさい。味を見て判断する」
エドは安堵のあまり、思わずその場に崩れ落ちかけた。
「ちょっ――」
アナスが、慌ててその肩を掴む。
「……何をしてるのよ、もう」
呆れたように息を吐き、けれど少しだけ笑って。
「味が駄目だったら、この件は二度と持ち出さないこと。いいわね」
「はい! 全力でやります!」
◇
翌日。午後。
午前の物資整理を終え、エドは宴会棟の厨房へ向かった。
扉を開ける。香りが、鼻を突く。
奥では、料理長が各料理人の皿を一品ずつ吟味している。
味見をする横顔は、先ほどまで怒声を上げていた鬼とは別人だった。
品評が終わると、合格者には調理担当の任務が割り振られ、不合格者は下ごしらえに回される。そして、基準に満たない者は――城を離れることになる。
料理人たちが退室していく。その背中には、安堵と緊張が入り混じっていた。
エドは隅に控えていた。
「そんなとこでこそこそしてないで、さっさと入ってきな」
声が、すぐ傍から飛んできた。
エドはびくりと背筋を伸ばす。いつの間にか、料理長が目の前にいた。
「準備ができたなら、ついて来い」
背を向けて歩き出す。エドは即座に続いた。
料理長の案内で、食材はすぐに揃った。見たことのない香辛料もいくつかあったが、基本の素材は変わらない。
料理長は一言も口を挟まず、ただ黙って見ている。
エドは急がなかった。
まず、卵を一つ焼いた。火加減を確かめるために。
白身が、思ったより早く固まる。
……わずかに眉をひそめ、一口、味を確かめた。
思案してから、踏み台を持ってきた。それに乗って、ようやく竈に手が届く。
その姿を見た料理長の目に、一瞬だけ微かな光がよぎった。
食材を鍋に入れ、火を調整する。焦らず、一つ一つの工程を丁寧に。
約三十分後。
盛り付けた肉じゃがの上に、焼きたての半熟目玉焼きをそっと乗せる。
トレイを両手で捧げ、料理長の前に立った。
「お願いします」
料理長は軽く鼻を寄せた。一拍、間を置く。
匙を取り、一口。
目が細くなった。閉じる。
しばらく、咀嚼の音だけが響いた。
匙で卵を割った。半凝固の黄身がゆっくりと流れる。もう一口。
沈黙。
エドの心臓が、早鐘を打っていた。
料理長の顔からは、何も読み取れない。
(……駄目だったのか)
胸が、きつく締めつけられる。
やがて、料理長が匙を置いた。
「意外ね」
「え?」
「火の通し方は悪くない。肉の繊維がちょうどほぐれている。卵も、狙い通りの半熟だ」
エドの顔が、明るくなりかけた。
「ただし」
料理長の声が、低くなった。
「この宴には、百人を超える賓客が来る」
エドの手が、止まった。
「お前は——百人分を作って、この味を保てるのか」
トレイの上で、匙が揺れた。かちゃ、と皿に当たる音。
「お前がやろうとしていることは、家庭料理を宴に出すということだ。味が落ちれば、それはただの侮辱になる」
料理長が冷徹な声で告げる。
「宴のすべての賓客に、この一皿を認めさせる覚悟が——お前にはあるのか」
静寂。
エドは、トレイを握りしめたまま動けなかった。
料理長は静かに息を吐いた。
「……よく考えなさい」




