第29話 料理長への土下座
「お前、普段犬の餌でも食ってるのか! 塩と砂糖の区別もつかないのかッ!?」
城館の厨房。怒声が天井を揺らした。
大きな帽子を被った丸い体型の女が、顔を真っ赤にして机を叩いている。この城の料理長だ。
「この肉、まだ血が滲んでるぞ! 宴の賓客に生肉を食わせる気か!」
周囲の料理人たちは、背筋を伸ばしたまま手を止めない。その迫力に、エドの眠気は一瞬で吹き飛んだ。
手にした包丁で、まな板ほどもある大きな肉の塊を切っていく。厚さが揃うように、丁寧に。
「……悪くない包丁捌きね」
声が、すぐ横で響いた。
エドの手が止まる。振り返ると、あの丸い体型の料理長が真横に立っていた。
エドが切ったばかりの肉片が、空中に浮いている。
(……いつの間に)
料理長の口元に浮かんでいた微笑が、ふっと消えた。
「何を見ている。手を止めるな」
「はいッ!」
気配が離れるまで、エドは一度も顔を上げられなかった。
◇
正午過ぎ。
第三班の見習い侍従たちは、ようやく厨房の応援から解放された。
背中を丸めて歩く者。壁に手をついて進む者。普段冷静なネフリまで、疲れた顔で手首を揉んでいる。
食堂には、充電中の小型魔導人形以外、誰もいなかった。目の前に並んでいるのは料理ではなく、色とりどりの飲料だけ。
レーナがグラスを一気に呷った。
「っぁ~……生き返るぅ……」
「やっぱり厨房の応援なんて、引き受けるんじゃなかった……」
「まぁそう言うなって。手当て三倍よ、三倍」
レーナが指を三本立てて笑う。
「要らないっての!」
誰かが料理長への愚痴を呟き、そこから吐き出し大会が始まった。
エドは黙って飲み物を啜っていた。胸の中で、深く頷きながら。
(ミランダ先生って、料理長に比べたら天使だな……)
あの、音もなく横に立ち、肉片を宙に浮かべていた姿を思い出す。
(こんな人が、城の料理長なのか……)
「そういえば、今回の宴って、何人呼ぶんだっけ?」
レーナがストローを咥えたまま、しばらく考えた。
「他地区の管理者も来るらしいわ。それと――」
レーナが手招きする。班の面々が身を寄せた。
「L.U.N.Aが招待リストに入ってる。しかも、うちのアクリスタ地区の十年免税を祝って、城と公都で一回ずつライブをやるんだって。おまけにチケット、全席無料!」
瞬間、食堂の時間が止まった。
次の瞬間――歓声が爆発した。
エドは慌てて両耳を塞いだ。驚いたのは、あの冷静なネフリまでも、子供のように飛び上がって喜んでいたことだ。
「……ルーナ、って、そんなに凄い人なんですか」
エドが尋ねると、全員の視線が突き刺さった。
「L.U.N.Aを知らないの?」
レーナが呆れたように額を叩く。
「当日、ルーシー様の歌声と舞を観れば、その意味が分かるって」
(……ルーシー様?)
エドの脳裏に、白い長髪が浮かんだ。タリア姉さんに、そっくりな――。
「あの、そのルーシー様って、蒼月魔導団の副官、ルシフィール・ヴェスティージ様のことですか?」
レーナが少し驚いた顔をした。
「本名まで押さえてるじゃない。――でも気をつけなさい。公の場でその呼び方は失礼にあたるわ。ルーシー様で通すのが礼儀よ」
「あ……はい……」
レーナの声は、もうエドの耳に届いていなかった。
視線が宙を彷徨う。口の端が、知らず知らずのうちに緩んでいく。
(ルーシー姉さん……来るんだ……)
――その横顔を、ネフリは黙って見ていた。
奥歯が、かすかに鳴る。
胸の奥で、何かが、小さく軋んだ。
◇
夜。
自室の机で、エドはぼんやりと画面を眺めていた。ペンが浮いたまま、指先から滑り落ちる。
溜息。立ち上がり、部屋を歩き回る。
足は自然とテラスへ向かっていた。空は夜の藍に染まりかけている。だが西の端だけ、まだ金色と紅に染まった雲が残っていた。
夕日。
エドの目が、細くなった。
「……っ」
ぱんっ、と額を叩く。
弾かれたように身を翻し、部屋を飛び出した。
◇
「はぁ……はっ……」
宴会棟の厨房。エドは息を切らして駆け込んだ。
料理長が振り返る。丸い目が、ぽかんとエドを見つめていた。
「何の用だ」
エドは呼吸を整えようとする。胸がまだ大きく上下している。
「料理長殿。……一つ、お願いがあります」
「言ってみろ」
「数日後の晩餐会で――ルーシー様に、一品、追加していただけませんか」
「ほう」
料理長が、鼻で笑った。
「晩餐の料理は、すべての賓客に等しく出すものだ。一人だけ特別扱いなど、あり得ん」
「では――」
エドは一歩、踏み出す。
「晩餐会全体に、もう一品、加えていただくことは可能ですか」
「はぁ?」
料理長の眉が寄った。
「自分が何を言っているか、分かっているのか」
「分かっています」
真っ直ぐに見つめてくるエドの目に、料理長が、ふと黙った。
……料理長の足が、無意識に半歩後ずさる。
「――それでも。どうしても、お願いしたいんです」
「無礼者が!」
ばんっ、と肥えた手が卓を叩いた。音が厨房中に響き渡る。だが、並べられた皿は一枚たりとも揺れなかった。
「貴様、自分を何様だと思っている。総管殿だって、こんな無礼な頼み方はしない」
エドは、思わず半歩下がった。
「出ていけ!」
そう言い捨てて、料理長は背を向けた。
どん、と鈍い音が響いた。
「本当に、申し訳ありません。でも、どうか――お願いします、料理長殿」
料理長が振り返る。その目に怒りが満ちて――そして、凍りついた。
エドは、額を床につけていた。
完全な土下座だった。
周囲の料理人たちが、息を呑んで囁き合う。
その震える小さな背中を、料理長はしばらく見下ろしていた。
やがて、小さく咳払いをする。
「……理由を言え」
エドが顔を上げた。
その目に、かすかな光が灯っていた。




