第28話 夕映えの問い
意識が、沈んでいく。
暗い。音がない。身体の輪郭が曖昧になっていく。
龍威の言葉が、遠くで反響する。
『意識の流れを感じろ。中心に集めろ。静寂の中で、爆ぜさせろ』
探す。内側に、手を伸ばす。
だが、何も掴めない。流れているはずのものが見えない。触れられない。
代わりに――別のものが、浮かび上がってきた。
森の中。巨大な魔物。血の匂い。剣を握る手が震えている。噛みつかれ、引き裂かれ、何度も何度も地面に叩きつけられた。
死んだ。生き返った。また死んだ。
記憶の底から、泥のように這い上がってくる。
「やめろ……」
押し返す。だが、戻ってくる。
そして――身体を、何かが掴んだ。
重い。
胸の奥から、冷たい手が這い上がってくるような感覚。呼吸が詰まる。手足が動かない。
視界の端に、黒と白の線がちらついた。
ぞわり、と背筋が凍る。
あの線を、知っている。
――あの精神世界で見た、顔のない人型。
「っ――!」
目を開けた。荒い息。全身が汗で濡れている。
独房の天井。暖色灯の光。
エドは両手を見下ろした。震えている。
(……何だ、今のは)
胸の奥に、まだあの冷たさが残っていた。
鉄扉が開いた。
「出なさい。懲罰期間は終了よ」
女衛兵の声を聞いても、エドはしばらく身体が動かせなかった。
◇
管理棟を出ると、すでに夜空だった。
近くの東屋にアナスがいた。小走りで近づくと、唇に指を当てて制される。
「夜中に城内で騒がないこと」
黒い腕輪を差し出された。エドの手が、わずかに震えた。
両手で受け取り、宝物のように一度見つめてから手首に通す。
「私闘は二度としないこと」
「はい。二度としません」
浮遊車で宿舎まで送られ、念押しされてから、エドは猫のように足音を殺して階段を駆け上がった。
服を脱ぎ、浴室へ。大粒の水滴が降り注ぐ中、床に仰向けになった。
水が身体を洗い流していく。
手首の腕輪を見つめた。水滴が表面を伝う。
「……最近の俺、ちょっと調子に乗ってたな」
脳裏に、実戦テストが蘇る。班の女性たち。詠唱なしの魔法。残像しか見えない体術。ネフリの黒い霧。
「……弱いな、俺」
水の感触が、急に煩わしくなった。
◇
浴室を出て、ベッドに倒れ込む。
眠りたい。だが眠れない。
もう一度。今度こそ。
意識を集中しようとする。呼吸を整えて。
だが――目を閉じた途端、記憶が溢れ出した。
村人たちの顔。血の匂い。崩れる家屋。何度も繰り返した自分の死。夢の中の絶望。
意識を引き戻そうとする。集中を保とうとする。
だが記憶は止まらない。押し返すほど、激しく押し寄せる。
精神が、引き裂かれるように軋んだ。
「っ……」
胸が、締め付けられた。喉の奥に、甘い鉄の味。
堪えきれず、口から溢れた。
赤が、シーツに広がっていく。
そのまま、意識が落ちた。
◇
翌朝。第三班の朝の任務に合流した。
エドが戻ったことに、班員たちは安堵した様子だった。
だが何かが違う。
以前なら清掃具を手に魔導人形と競争するように動き回っていた。効率は変わらないが、覇気がない。いつもの笑顔が消えている。
班員たちが小声で囁く。
「独房で何かされたんじゃ……」
「まさかね。罰は罰だけど、罪人じゃないんだから」
レーナが手を振って否定する。
「ねぇ、ネフリ。あんたはどう思う?」
窓を拭いていたネフリの手が、一瞬だけ止まった。
「……知らないわ」
淡い返事。そのまま作業を続ける。
だが目の端で、エドの方を窺っていた。
こちらを見ていた。一瞬だけ。
だがすぐに目を伏せ、眉を寄せたまま、別の部屋へ去っていった。
◇
放課後。校庭の芝生の端。
エドは膝を抱えて座り、ただ上空を見ていた。
校庭では、衛兵たちが空中を飛び交っている。淡い蒼の杖で、金色のエネルギー球を環へ叩き込む。訓練試合だ。
エドは表情を動かさない。ただ、目で追っている。
ひとつの影が近づいてきた。燃えるような赤い髪。
龍威がエドの横に立ち、同じ方向を見ていた。
やがて日が傾き、衛兵たちが解散した後も、二人は動かなかった。夕焼けが二人の顔を染めていく。
「で? 懲罰房一回で、大人しくなったか」
エドから苦い笑いが漏れた。
「……俺、今、何をすればいいのか分からないんだ」
「お前が今やるべきは、気導の御技を身につけて、もう一度、俺と本気で打ち合うことだ」
エドは首を振った。
「たぶん、がっかりさせることになる」
「失敗が怖いのか?」
「それほどじゃない。ただ――意味があるのか、と思ってさ」
エドが振り向き、龍威を見上げた。
「あの装備。連邦の、あの強い女たちを。――俺が気導の御技を覚えたところで、勝てるのか?」
龍威の言葉が、止まった。
脳裏に、影がよぎる。高い姿。蒼い瞳。見下ろす視線。振り上げられた腕が、斧のように――。
ぐらり。龍威の膝から力が抜けた。無様に芝生に尻をついた。
呼吸が浅い。目が泳ぐ。
「……あんた、大丈夫か」
龍威は小さく首を振り、立ち上がった。顔を隠すように背を向ける。
「……お前の言う通りかもしれんな。覚えたところで、勝てるとは限らん」
龍威が絞り出すように言った。
「俺たち男は、魔法を使えない。女は魔導回路を生まれ持っている。魔導科技の方が、はるかに効率がいい」
龍威は拳を握った。
「なのに俺は、気導を選んだ。理由なんて、とっくに自分でも分からん」
三年間。家族から断片的な記録をかき集め、ようやく入門に辿り着いた。その三年が、今、目の前で揺らいでいる。
「なら――なぜ俺に、教えた?」
龍威は短く息を吐いた。
「お前なら、できると思った。だが――見込み違いだったかもしれんな」
手を振り、歩き去っていった。
夕日が、その背を長く伸ばしていく。
どこか、落ちた背中だった。
エドは動けなかった。龍威の姿が完全に消えても、草の上に座ったまま、その方向を見つめ続けていた。




