第26話 折れた音
静かな旋律が、室内に流れていた。
だが、ところどころに混じる不自然な強音が、調和を壊している。
龍威はそれを分かっていた。分かっていても、指が止まらない。
一時間ほど前。ギターを背負って部屋へ戻った時、扉の前にあの小さな影が立っていた。
「どけ」
龍威が冷たく言い放ち、腕輪を扉にかざす。
「意外だったよ。音楽系のサークルに入ってたんだな」
エドの声は、妙に落ち着いていた。龍威は無視して扉を開ける。中へ入ろうとした瞬間。
「明らかに槍の方が合ってるのに、なんでわざわざ棍を使った?」
足が止まった。
「俺を傷つけたくなかったのか。それとも――あの槍を、手に取れないのか」
龍威の呼吸が乱れた。ゆっくりと振り返る。
「……喧嘩売りに来たのか」
「いや。この前の対戦は、あんたの実力を引き出せなかった。もう一回、やり合ってほしい」
エドは真っ直ぐに見据える。
「今度は――あんたの方が、手を出しにくくなると思うけど」
龍威の縦の瞳孔が、一瞬だけ収縮する。
「でもあの"相棒"を手に取る気がないなら、勝負の意味もないか。邪魔した」
エドは背を向ける。
「……待て」
龍威の声が、低く震えた。
「調子に乗るなよ、小僧」
「今夜。裏庭で待ってる」
そう言い残し、エドは去っていった。
◇
弦を弾く指に、力がこもる。音がまた乱れた。
視線が、ベッドの脇へ向く。布に包まれた、折れた槍。
しばらく見つめ――目を逸らした。
再び弦を鳴らすが、音は戻らない。
◇
夜。裏庭。
龍威はすでに来ていた。だが誰もいない。
「……チッ」
忌々しげに舌打ちし、棍を地面に叩きつけた。踵を返す。
「悪い、遅れた」
背後から、あの痩せた影が駆け寄ってくる。
龍威の視線が、エドの手元に落ちた。右手に木製の短剣。左手に、あの細身の木剣。
「何のつもりだ。そんな滑稽なやり方で、勝てるとでも?」
「勝てるよ」
即答だった。
エドは右手の短剣を背に隠し、左の木剣の切っ先を龍威に向ける。
「もし勝ったら――どうする?」
「あり得ない前提で話すな」
「じゃ賭けようぜ。逃げるのか?」
「……いいだろう」
◇
棍の先端が残影のように走った。鞭のようにしなる一撃。
カン、と乾いた音。木剣の背で、軽く逸らされた。
数合、打ち合う。だが当たらない。受け流される。しかも左手一本で捌いている。右手の短剣は、まだ動いていない。
龍威が攻勢を切り替えた。跳躍し、身を翻す。力で叩き落とす。
だが優勢は取れない。エドが完全に懐に入り込んでいる。
エドの木剣が何度も腕を掠めていく。浅く、だが確実に。
十合も経たないうちに、龍威の呼吸が乱れ始めた。
脳裏に、影がよぎった。エドではない。大きな姿。冷たい声。蒼い瞳。見下す視線。
『この学院は、選ばれた者の場所よ』
『不要なものは、排除される。ただ、それだけ』
冷汗が顔を伝う。知らぬ間に、龍威の動きが鈍っていた。
「どうした、赤毛。もう終わりか?」
エドの声で引き戻される。右手は、まだ動いていない。その余裕が、圧力になる。
鱗が浮かぶ。瞳が、熔金色に燃える。
「――舐めるなァッ!!」
白い闘気が爆ぜた。
その瞬間、エドの右手が動いた。短剣が放たれる。視界から消える速さ。
龍威は全力で身体を逸らす。髪が数本、宙に舞った。一瞬の破綻。エドは見逃さない。跳躍。上空から木剣を振りかぶり、龍威の頭へ叩き込む。
――バキッ。
何かが、断ち切れる音。
龍威の身体が凍りつく。この音を、知っている。あの日と、同じ音だ。
目を落とす。棍は、折れていない。エドの攻撃を、受け止めている。
だが――頭の中で、あの音が止まない。
エドも動きが止まっていた。何かに気づいたように。呆然と、龍威の顔を見ている。
その隙を――龍威は見逃せなかった。見逃す余裕が、なかった。
闘気が膨れ上がる。棍を握り直し、横薙ぎ。
正面から、エドの腹部を捉えた。
エドの身体が吹き飛ぶ。数十メートル先の芝生に叩きつけられた。
静寂。
龍威は両手を見下ろした。今の一撃、どこまで力を込めたか、分からない。
慌てて駆け寄る。
「おい……!」
エドは白目を剥き、口元から血が滲んでいた。呼吸が浅い。身体が痙攣している。
「しっかりしろ!」
「――あんたたち」
背後から声。振り返る。ネフリが芝生の上に立っていた。冷たい面持ち。
「門限の時間よ。こんなところで何を――」
言葉が途切れた。視線が、地面に落ちる。
表情が変わった。目が見開かれ、身体が強張る。
「あんた……何を突っ立ってるの……!」
声が鋭く裂けた。
「早く医務室に運びなさい!!」
龍威が我に返り、エドを抱え上げた。闘気を纏い、一気に駆け出す。
ネフリがその背を追う。走りながら、龍威の背中を睨みつけていた。
唇を、強く噛んでいた。
◇
医務室。緊急病棟。
分厚い扉は閉ざされ、上部の救急灯が赤く点灯している。
廊下で、龍威が壁に背を預けていた。顔色が悪い。
ネフリも傍にいた。椅子に端座し、脚を組み、腕を交差させている。いつもより、はるかに冷たい瞳。
駆けつけたアナスは、報告を聞くなり公都の医療センターからポリン設備の緊急搬送を手配した。龍威の腕輪は青から黄に変わった。「嫌疑」の色だ。
ピロン、と電子音が鳴った。
緊急灯が――赤から、緑に変わった。全員の足が止まる。
分厚い扉が、ゆっくりと開く。
エドが、腹を押さえながら出てきた。魔導人形に肩を支えられている。
「どういうことですか。重傷のはずでしょう、なぜ歩いて――」
アナスが早足で詰め寄る。
「あの……その……」
エドは周囲の顔を見渡した。ばつが悪そうに目を泳がせ――やがて、深々と頭を下げた。
「本当にすみません。実は……軽傷です。さっきのは、その……冗談でした」
全員の表情が、同時に凍りついた。
「冗談、ですって?」
アナスの声が低くなった。
「ポリンの検査レポートには、内臓損傷と記録されていますが」
「一種の……特技、みたいなもので……」
突然、エドが口を押さえた。全身が痙攣し、白目を剥き――ばたりと倒れた。
一瞬の間。龍威が棍を握り直した。ネフリの口元が引きつった。
アナスが倒れたエドを引き起こした。怯えた笑み。口の端が赤い。
だが――それは血ではなかった。甘い匂い。果実の香り。
「あなたね……」
アナスの声が、静かに震えた。頭の両側から、巻いた角がゆっくりとせり上がる。
「セリーヌ様の罰は、どうやら甘すぎたようね」
「先日の私闘、罰金五百銀貨。今回は再犯につき一千五百銀貨。さらに――エド・ウォーカー。本日より三日間、懲罰房に収監よ」
アナスが屈み、エドの手首から腕輪を外した。
エドの顔色が変わった。
衛兵に連行されていくエドの背中を、ネフリが見送っていた。唇がわずかに動いたが、声は出なかった。
アナスは龍威の腕輪を操作し、黄から青へ戻す。
「夜中にうろうろするな。宿舎に戻りなさい。懲罰房がお好みなら、別だけど」
二人は顔を見合わせ、恭しく頭を下げた。
◇
医務室。
全員が去ったあと、魔導人形はしばらく動かなかった。
閉まった扉を見つめている。
『エド君は馬鹿ね……あれだけ言ったのに。このままじゃ、あなたの身体は……』
言葉が、途切れた。
表情が、ふっと消える。
くるりと向きを変え、緊急病棟の奥へ。端末の前で立ち止まった。
指先がパネルを叩く。投影ウィンドウが開いた。
『送信中――エド・ウォーカー、身体状況データ』
魔導人形はそれを見届け、静かに背を向けた。




