第25話 弁当
朝の庭。
「遅い!!」
エドが西側の庭に駆け込んだ瞬間――ゴン、と鈍い音。頭に衝撃が走る。
反射的に頭を押さえかけて、慌てて手を止めた。目の前で、レーナが腕を組んでいる。
「集合時間、とっくに過ぎてるんだけど?」
「……すみません。腹の調子が悪くて、医務室に寄ってました。腕輪での報告も、まだ使い方がよく――」
レーナが深いため息をついた。
「今朝、総管殿から連絡があったわ。"エド・ウォーカー、無断欠席。銀貨五百枚の罰金"」
「ご、五百!?」
「文句あるなら直接聞きに行きなさい。ほら、さっさと掃除始める!」
エドは肩を落としながら、清掃具を手に取った。
◇
朝の作業を終え、食堂で朝食を済ませたあと、エドは一人列を外れた。
軽めの料理をいくつか包んでもらい、医務室へ向かう。だが廊下の手前で足を止めた。ネフリと顔を合わせるのが、どうにも気まずい。
しばらく壁に背を預けていると――。
『何をこそこしてるのよ。来たなら直接入りなさい』
呆れた声とともに、魔導人形が姿を見せた。
「いや、その……先輩も腹が空いてるかと。針を抜いたあと、少し食べさせてあげてください」
包みを差し出す。魔導人形は一瞬きょとんとし、小さく息を吐いた。
『変なところで気が回るわね。預かっておくわ。あんたは早く授業に行きなさい』
エドはその背を見送った。口元がわずかに緩む。
だが次の瞬間、表情が曇った。昨夜はネフリの処置に時間を費やし、課題にはほとんど手をつけていない。
重い足取りで、教室へ向かった。
◇
案の定、ミランダに叱られ、他の教師にも詰められた。だが以前ほど堪えない。叱責も嘲笑も、もう慣れた。
疲れ切った身体で午前の授業を終え、宿舎へ向かう。背筋が、ずるりと下がった。
角を曲がった瞬間――どん、と誰かにぶつかった。尻もちをつく。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
顔を上げた。ネフリだった。しゃがみ込み、手を差し出している。顔色は、だいぶ戻っていた。
ただ――その手に、丁寧に整えられた小さな包みがある。
エドの視線に気づいたのか、ネフリの尖った耳がぴくりと動いた。手を後ろに隠そうとして――やめる。
「……だいぶ元気そうですね」
「うん。……あなたと、あの人形のおかげで」
沈黙が落ちた。互いに視線を彷徨わせ、何か言おうとして、見つからない。
エドが自分の部屋の扉に手をかけた、その時。
「……あの」
細い声が、背中に届いた。
振り返る。ネフリは顔をわずかに逸らし、両手を背中に回している。
「……お昼、食べた?」
「いえ、まだですけど……」
右手が、ゆっくりと差し出された。あの包み。
「……よかったら、これ」
◇
部屋の中。
エドは机の前に座り、包みを開けていた。
ネフリは背筋を伸ばして正座している。膝の上の指先が、わずかに落ち着かない動きをしていた。
「何を見てるの。さっさと食べなさい」
「あ、はい。……いただきます」
箸を取り、肉を一切れ、口に運ぶ。ゆっくりと噛む。
ネフリが声を落とす。
「……美味しくない?」
エドは飲み込み、顔を上げた。
「すごい。温度の加減が絶妙だ。肉の旨味も、食堂のより――」
「えっ……本当?」
ネフリの耳が、ぴくりと跳ねた。
だが次の瞬間。エドの目に、どこか得意げな光が混じっているのに気づく。
褐色の頬が、かっと熱を帯びた。
「――余計なこと言わなくていい。黙って食べなさい」
ぴしゃりと遮る。だが、声はどこか柔らかい。
しばらく、食事の音だけが部屋を満たした。
「そういえば」
ネフリが、ふと切り出した。
「先日の実戦テスト。龍威に勝ったんですって?」
エドは口の中の飯を咀嚼しながら、無力に笑った。
「あいつ、全力じゃなかったですよ。あの後、直接部屋に行って、もう一回やり合ったんですけど――木の棒で何合もたなかったです」
ぷっ、とネフリが吹き出した。手で口を押さえ、肩が震えている。
「馬鹿ね。打ち勝った相手にわざわざ殴られに行くなんて」
「あはは……でも、確かめたかったんです」
エドの表情が変わった。箸を置く。
「あの白い闘気。あれは普通の魔力じゃない。龍威の身体から、直接噴き出してた」
ネフリの笑みが消えた。しばらく考え込む。
「……『気導の御技』かもしれないわね」
腕輪の端末を操作し、空間に資料を表示させた。だが情報は少ない。
「記録にあるのは六百年前、異世界から来た"勇者"が使っていた技術。でも……サルタリスに到達する前に、勇者以外の全員が突然死したの。彼は部下の死を悔いて、姿を消した」
エドの表情が沈んだ。
「……もっと詳しく読みたいんですけど。文字も注釈も、ほとんど理解できなくて……」
ネフリが目を細めた。
「……だから、あなたの課題は……馬鹿ね。分からないなら聞けばいいでしょ」
ふいと顔を背ける。
「……仕方ないわね。時間が合えば、見てあげてもいいわ」
「本当ですか?」
ぱっと顔が上がる。その反応に、ネフリの心臓が一拍跳ねた。
「毎回とは言ってないから。時間があれば、よ」
「それより。龍威にどう聞くつもり? あの白い気のこと」
「……それが、まだ」
頭をかくエドを見て、ネフリの口元が緩む。
「じゃあ――こういうのはどう?」
ネフリが机の上に身を乗り出した。資料を指差しながら、声を落とす。
エドも自然と身体を傾けた。近い。
ネフリの指が、画面の一点を示している。その指先を追うように、エドの視線が動く。
声が小さくなっていく。わずかに香る甘い匂い。吐息が、頬にかかった。
エドは内容を聞いているつもりだった。だが耳に残っているのは、言葉ではなく、その近さだけだった。
「――分かった?」
ネフリが顔を上げた。
エドの目が、すぐそこにあった。
言葉が途切れた。
琥珀色と、鳶色。二つの視線が、交わったまま動かない。
離さなければならないのに、身体が動かない。
ほんのわずかに、距離が縮まった。
カシャン。
エドの手から、箸が滑り落ちた。木の音が、静かな部屋に響く。
「っ……!」
同時に、弾かれたように離れた。
エドは慌てて箸を拾う。ネフリは視線を窓の外へ逃がした。
沈黙。互いに相手を見ない。見られない。
「……そろそろ、片づけるわ」
ネフリが先に動いた。声は平静だったが、背を向ける動きがわずかに硬い。
「あ、手伝います」
弁当箱を閉じ、包みを整え、ネフリに手渡した。指先が、一瞬だけ触れた。
どちらも、何も言わなかった。
ネフリが扉に手をかけた。
「……先輩」
ネフリの足が止まる。一拍。ゆっくりと振り返った。
「……何?」
エドは目を泳がせていた。唇が動くが、音が出ない。
「その……今度、先輩の部屋に、伺ってもいいですか」
声が、途中でかすれた。
ネフリの目が、一瞬だけ見開かれた。
褐色の頬に、ゆっくりと赤みが差していく。唇が開きかけて、閉じる。開いて、また閉じる。
視線が床に落ちた。長い睫毛が、二度、震えた。
やがて――扉を開いた。
「……考えておくわ」
短い言葉だけを残し、扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
エドはしばらく扉を見つめていた。やがて部屋に戻り、意味もなく歩き回る。机の前に立っては、また歩き、窓の方へ行っては引き返す。
胸の奥に、妙な感覚が残っていた。落ち着かない。
ベッドへ倒れ込み、天井を見上げる。ふ、と笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
手を下ろす。
天井の染みを見つめながら、口の中で呟く。
「……気導の御技、か」




