第24話 針と誓い
「……ふぅ……」
エドの呼吸は浅く、静かだった。
視線は正面のスクリーンに据えられている。映し出されているのは、自分の腹部――立体投影された内部構造。右手には、細い針。すでに腹部へ深く差し込まれていた。
『いい、そこで止めて!』
傍らの魔導人形が、鋭く指示を飛ばす。
ピタリ、と。エドの手が止まった。
歯を食いしばり、指先にだけ意識を集中させる。針をわずかに回し――ゆっくりと押し、引く。
ほんの数十秒。だが、ひどく長く感じた。
やがて、エドは静かに針を引き抜いた。じわり、と血が滲む。粘り気のあるそれを指で絞り出すと、すぐに魔導人形が薬剤を塗布した。
『よし……これで大丈夫。少ししたら、これ飲んで』
モニターに柔らかな表情が浮かび、小瓶が差し出される。
「……ありがとう」
エドは小瓶を受け取り、針をトレイに放って服を整えた。腹部に触れ、ゆっくりと立ち上がる。
「すごいな……この薬。もうほとんど痛みがない」
『あなたもね。東大陸の"針術"なんて、よく扱えるわ』
「昔、姉さんに教わったんだ」
エドの口元が、わずかに緩んだ。
脳裏に浮かぶのは、厳しい表情で手を取って指導していた姉の姿。
胸の奥が、軋む。だがその感情は、すぐに飲み込まれた。
『次はもう少し怪我を減らしなさいよ』
「まぁ、気をつける」
軽く手を振って、医務室を出た。
◇
見習い侍従の宿舎。
部屋に戻るなり、エドは鏡の前で服をめくった。
腹部には薬の痕がわずかに残るだけ。傷も、腫れもない。指先でなぞり、眉をひそめた。
「……あの赤髪野郎……」
昨夜の龍威との試合を思い出す。弄ばれた挙句、最後の一撃であっさり決着がついた。
「元首席か。……差はでかいな」
自嘲気味に呟き、机に向かう。
腕輪を操作すると、机上に複数のウィンドウが展開された。赤く表示された術式記号と数式が、いくつも並ぶ。
額に汗が滲んだ。握ったペン先が、かすかに震える。
ふと、ウィンドウの端に視線が流れる。今朝の清掃シフト表。ネフリの名前の横に、「欠席」の表示。
弁当を届けたあの日から、もう三日が経つ。扉越しに聞いた声は、いつもより鋭く、荒かった。
胸の隅で、小さな引っかかりが消えない。
だが今の自分には、課題すら片づけられない。それ以上は考えず、ペンを握り直した。
◇
夜。
ベッドに仰向けになり、天井を見上げる。課題は終わらない。明日もまた叱責される。教師たちは誰も答えを与えない。ただ「自分で調べろ」と繰り返すだけだ。
息を吐き、身体を起こした。枕元の木剣を掴む。そのまま、部屋を出た。
城館・西側後庭。月光に照らされた庭は、静まり返っていた。花々が咲き、水が揺れ、小さな池が光を反射している。
これほどの景色なのに、人影はない。
そう思った、その時だ。
ふわり、と風が抜けた。甘い匂いが混じっている。
エドの表情が引き締まる。反射的に口元を押さえ、周囲を見回した。
不自然だ。
布で口元を覆い、匂いの流れを辿る。池の方角。淡い薄紅色の霧が、低く漂っていた。
さらに近づいた、その瞬間。
「……っ、は……」
かすかな声。続いて、何かが崩れる音。
エドは地を蹴った。
池の縁。倒れている人影。
「……先輩!?」
駆け寄り、抱き起こす。ネフリだった。
頬が赤く、全身に汗が滲んでいる。呼吸は荒く、焦点が合っていない。
肩を掴む手に、力がこもった。
迷う時間はない。ネフリを担ぎ上げ、そのまま医務室へ走った。
◇
『ほんと、よく来るわねあなた……』
病室に駆け込むなり、魔導人形が呆れた声を出した。
「俺に言われても困る」
エドは魔導人形が差し出した解毒剤を受け取り、まず自分の鼻先とこめかみに塗り込んだ。あの霧を吸った影響が、まだ頭の隅でちらついている。
深く息を吸い、意識を整えた。
ベッドの上で、苦しげに身じろぐネフリ。エドの眉間に、皺が寄った。
「……毒ですよね」
『解析する。少し待って』
機器が起動し、光が走る。やがて。
『……解析完了。この子、無茶しすぎ』
魔導人形の声色が変わった。
「どういう意味です」
『魔導回路が損傷してる。しかも放置したまま。そこに幻惑系の毒。魔力で無理に抑え込んでるの』
エドの表情が強張る。
「治せるんですか」
『最善は公都の医療施設ね。でも――間に合わない』
短い沈黙が落ちた。
『このまま運べば回路が壊れる。ここじゃ設備が足りない。薬だけじゃどうにもならないわ』
思考が回る。エドは顔を上げた。
「……流れを通せれば、いいんですよね」
『え?』
魔導人形が聞き返す。
「針術なら……いけるかもしれない」
『……やれるの?』
「やるしかないでしょう」
迷いはなかった。
魔導人形の胸のランプが点滅する。直後、スクリーンに精密な身体構造図が展開された。
『ダークエルフ仕様に変換したわ。ここを基準に打って』
「わかった」
エドは針を握り直した。ゆっくりと、息を吐く。
視線の先。苦しげに呼吸を乱すネフリ。
指先に、わずかな震え。
それでも。針先は、迷わず定まっていた。
◇
針が、正確に落ちていく。
魔導人形の指示に従い、要所を封じるように打ち込んだあと、エドは手の位置を移す。押し、滑らせ、わずかに力を加える。経路をなぞるように。毒を散らさないように。
魔導人形の補助でネフリの身体は固定されている。だが――視界に入るのは、処置のために開かれた衣服。褐色の肌。鎖骨のライン。無防備に晒された肩と胸元。
エドは一瞬だけ目を伏せ、すぐに意識を引き戻した。視線を手元に落とす。
『いい調子よ。第二段階に入るわ』
エドは一度手を離し、指先の感覚を確かめた。再び針を取る。今度は迷いなく。
流れを整えるのではなく――導く。一点へと。
時間の感覚が曖昧になっていた。荒かったネフリの息遣いは、次第に重たい呼吸へと変わっていく。
エドの指先が腰へ移る。針を回し、沈め、わずかに引く。その繰り返し。
『……来てる。そこ、もう少し』
わずかに頷き、さらに押し込む。
『……よし。十分よ』
スクリーンの数値が変化する。一点に、濃く淀んだ反応。
エドは深く息を吸い――針を、引いた。
黒く濁った血が、傷口から噴き出した。
ネフリの喉から苦しげな声が漏れる。だがエドは止まらない。患部を押さえ、余分な血を流し切る。魔導人形が即座に処置を行った。
『……排出成功。峠は越えた』
エドは椅子へと崩れ落ちた。荒い息。指先が震えている。差し出された瓶に手を伸ばすが、うまく掴めない。結局、魔導人形がそのまま口元へ運んだ。
「……すみません」
『気にしないで』
ベッドの上。ネフリの顔色はわずかに戻っている。穏やかな寝息。
針は各所に残されたまま。衣服は乱れたまま。
エドは顔を逸らし、呼吸を整えた。
椅子の背にもたれ、そのまま目を閉じた。
◇
ビビッ――。
腕輪の振動で、エドは目を覚ました。
椅子に座ったまま眠っていたらしい。肩に鈍い痛みが走る。腕輪の時刻表示が、淡い光で点滅していた。集合時間が近い。
「……ん……」
かすかな声。エドの心臓が、一つ跳ねた。
ベッドへ近づく。
「ネフリ先輩?」
ゆっくりと、瞼が開く。焦点の合わない視線が彷徨い、やがてエドを捉えた。
一瞬の驚き。次の瞬間――警戒に変わり、起き上がろうとする。
「待ってください!」
エドは咄嗟に肩を押さえた。
「針が残ってます。無理に動くと、身体を傷つけます」
ネフリの動きが止まった。視線がゆっくり下がる。腕。背。腰。各所に打たれた針。
不可思議そうにエドを見上げる。
「……あなたが、やったの?」
エドは静かに頷いた。
「命に関わる状態でした。……やむを得ず」
言いかけて、言葉を止めた。そのまま片膝をつく。
「無礼をお許しください」
深く、頭を下げる。
ネフリは一瞬、言葉を失った。視線が自身の身体に落ちる。開いた胸元。乱れた衣服。
顔がさっと赤く染まった。反射的に手が動きかけるが、身体中の針の痛みがそれを許さない。
奥歯を噛みしめ、顔を枕に埋めた。
「……全部、見たのね」
低い声。恨みが滲んでいる。
エドの背筋が強張った。
「……はい」
ダークエルフにとって、それがどういう意味を持つか。エドは理解していた。
「……どのような罰でも受けます。たとえ命で償えと言われても、俺は――」
そこで、言葉が止まった。
脳裏に、セリーヌの声が蘇った。
『――自分を差し出すのは、最も安易で、最も愚かな方法よ』
ゴン、と。
自分の額を拳で叩いた。
ネフリの眉がわずかに動く。
「……何してるの」
「すみません。今の言い方は、間違ってました」
エドは姿勢を正し、頭を下げ直した。
「俺は――責任から逃げたくない」
一拍、置く。
「もし先輩が、償いを求めるなら。この身で、先輩に仕えます」
目を上げた。真っ直ぐに。
「――一生」
空気が止まった。
ネフリの目が見開かれる。
何か言いかけ、口を閉じた。顔が、さっきとは違う赤みを帯びていく。
跪いたまま動かない少年の横顔を見つめる。馬鹿みたいに真っ直ぐだ。それが余計に腹立たしい。
胸の奥に、名前のない熱が灯る。怒りとも、違う。困惑とも、少し違う。
ネフリは枕に顔を埋めた。
沈黙。
少女は動かない。少年は、片膝をついたまま。
室内に、静寂だけが満ちていた。
◇
『……何してるの、二人とも』
間の抜けた声が、空気を割った。
入口に、魔導人形が立っている。視線がエドの膝、ネフリの埋めた顔、それから室内の空気を一通り巡った。
『エド。もうすぐ集合時間よ。ここで油売ってる暇はないんじゃない?』
エドの肩がびくりと跳ねた。腕輪の時刻が、もう一度点滅する。
「行きなさい」
ネフリの声。感情は読めない。
「やるべきことを、やってきなさい」
エドはゆっくりと立ち上がる。魔導人形に針を抜く手順を伝え、扉へ向かった。
「……ねえ」
背中に、声が落ちた。
足を止め、振り返る。
ネフリは顔を逸らしたまま。尖った耳の先だけが、わずかに赤い。
「……ありがとう」
小さな声。
エドの胸に、じんわりと熱が広がった。
「……はい」
短く応え、扉を閉めた。
静寂。
ネフリはゆっくりと顔を上げる。閉じられた扉を、しばらく見つめていた。
やがて――枕に顔を埋める。
尖った耳の先は、まだ赤いままだった。




