第22話 枯枝の剣
書斎。アナスからエドの近況報告を聞き終えたセリーヌは、片手で額を押さえ、しばらく黙っていた。
やがて——くっ、と喉の奥で笑いが漏れた。
「……主、なぜお笑いに?」
アナスが怪訝そうに問う。
セリーヌは目を上げた。
「あの子、最初に軍営へ来た時に、目は泳いでいたけれど、口を開けば堂々としたものだった」
椅子から立ち上がる。
「それが今では、私の名前のせいで罪悪感を抱いている。——面白い子だわ」
「ですが……」
アナスの声に、わずかな切迫が混じる。
「この子は連邦で歓迎されていません。先日公都を歩いた時も、私がいなければ——」
セリーヌは窓辺へ歩み、残月を見上げた。
「人間は、寿命が短い」
静かな声だった。
「連邦の民が、あの子を恨み続けられる時間なんて——たかが知れているわ」
「ですが——!」
アナスの声が、思わず高くなった。
「あなた様が百年かけて築かれた功績が——あの子のせいで——」
セリーヌが手を上げた。アナスは口を閉じる。
セリーヌはゆっくりと振り返った。
「若い命が、恨みを抱えたまま消えてしまう方が——余程、取り返しがつかないわ」
アナスは言葉を失い、深く一礼した。
そのとき、アナスの腕輪が鳴った。
◇
裏庭を見下ろす高楼に着いた時、すでに勝負はついていた。
エドが一人、草の上に仰向けに倒れている。龍威の姿はない。
衛兵の報告では、木剣と棍で十数合。エドの負け。
セリーヌは口元を隠して笑った。
「負けたくせに、何をぶつぶつ言っているのかしら」
呆れたように、背後のアナスが息を吐く。
「まったく。明日、きっちり罰を——」
「いいわ。公平な決闘で、誰も怪我していないなら」
セリーヌはアナスの言葉を遮り、身を翻した。
「ちょっと見てくる」
「セリーヌ様——」
アナスが言い終わる前に、その姿は消えていた。
◇
裏庭は静まり返っていた。
エドは腹を押さえながら身体を起こし、木剣を杖代わりに立ち上がろうとしていた。
(くそっ……近づけなかった。棍の先に、ずっと遊ばれて——)
「夜更かしして決闘とは、いい度胸ね」
涼やかな声が、夜を裂いた。
エドの全身が跳ねた。振り向く。
セリーヌが、微笑みながらゆっくりと歩いてくる。
「セ、大公爵閣下……!」
慌てて片膝をつく。だが腹の傷に響き、思わず顔をしかめた。
セリーヌの表情が、すっと沈んだ。
「深夜に無断で殴り合い、城の秩序を乱した。——分かっているの?」
威厳が、山のように降りてきた。
エドは額に冷や汗を浮かべ、深く頭を下げる。
「……申し訳ありません。罰は、何なりと」
その萎縮した姿を見て——セリーヌの胸の奥で、何かが弾けた。
ぷっ。
笑い声が漏れた。
エドが、思わず顔を上げる。
月光の下。セリーヌが口元を手で隠し、目を細めて笑っている。普段の威厳が嘘のように、柔らかい顔だった。
「——何を見ているの」
一瞬で、表情が厳しく戻った。
エドは我に返った。耳まで熱い。頭が真っ白になっている。
「あ、俺——その——」
言葉が出ない。
ぱん。
自分の頬を、思い切り叩いた。
セリーヌが目を丸くする。エドは目を逸らし、必死に呼吸を整えた。
「……ふふ。もういいわ、からかいすぎたかしら」
セリーヌは肩の力を抜き、くすくすと笑った。
「沈んだ顔をしていたから、ちょっと刺激してみただけよ。気にしないで」
「……あ、はい」
エドはまだ動揺していた。だが、空気が和らいだのを感じて、ようやく口を開く。
「落ち込んでいたというか……さっきの決闘が、気になって」
「負けたことが?」
セリーヌが小首を傾げると、エドはゆっくりと首を振った。
「いえ」
エドは木剣を拾い上げた。
龍威の棍の構えを模倣する。短く握った端から放たれる突き。間合いの制御。次に自分の剣を構え、数手を振ってみせた。
「開始の不意打ちは仕方ないとして……その後、全力で踏み込んだのに、まるで近づけませんでした。棍の先に、ずっと遊ばれて」
眉を寄せる。
「俺の歩法が未熟なのか、それとも——剣そのものに、何か足りないのか」
セリーヌは腕を組んで聞いていた。
「馬鹿ね」
あっさりと言った。
「相手を見ずに、武器ばかり見ている」
エドが目を瞬く。
セリーヌは周囲を見回した。少し離れた地面に、枯れた木の枝が落ちている。
蒼い瞳が、一瞬だけ光を帯びた。
枝が淡い蒼い光を纏い、ふわりと浮き上がる。一直線に飛び、セリーヌの指先に収まった。
軽く振る。残った枯葉が粉々に散った。
「坊や。よく見ていなさい」
穏やかだった目が——刃に変わった。
つま先が地を蹴る。身体が流れるように展開した。
枯れ枝が弧を描く。
緩やかで、柔らかい。力など入っていないように見える。だがその弧の終端で、枝が空気を裂いた。雷鳴のような鋭い唸り。
猛々しい突きと、しなやかな返し。その二つが、一本の枯れ枝の上で矛盾なく溶け合っている。
残像が幾重にも重なり、裏庭全体が枝の軌跡で覆われたように見えた。
エドの心臓が、跳ねた。
(この歩法——俺の、歩法だ)
そして。
(この剣は——)
背筋を、稲妻が駆け抜けた。
(師匠の——七曜・異剣流……!!)




