第20話 覚悟の答え
書斎には、紙をめくる音だけが満ちていた。
セリーヌは細く息を吐き、手首を軽く回した。机上に整然と積まれた書類。視線がふと横に流れ、飾られた一枚の写真で止まる。
サンドラたちと並ぶ、穏やかな一瞬。口元がわずかに緩み——同時に、ほんのわずかな陰りが差した。
「……ご苦労様」
小さく呟き、椅子を離れる。
テラスに出ると、陽光が城を包んでいた。張り詰めていた思考が、すっとほどけていく。
そのとき。城内から、かすかな喧騒。それに混じる、金属の打ち合う鋭い音。
「……何をこんなに騒いでいるのかしら」
次の瞬間、セリーヌの姿が掻き消えた。
◇
城壁。
気配に反応した衛兵が振り返り、剣に手をかけた。だが顔を見た瞬間、即座に片膝をつく。
セリーヌは手を上げ、唇に指を当てて静かに制した。そのまま壁際へ歩み寄り、眼下を見下ろす。
結界に覆われた訓練場。二つの影が、激しく交錯していた。
一方は大剣。唸りを上げる軌道が空気を歪め、振り抜くたびに衝撃が遅れて広がる。
もう一方は——小さい。細身の長剣を最小限の動きで流し、踏み込み、すり抜ける。近いようで遠く、遠いようで懐にいる。
観衆がどよめく。
だが、セリーヌはわずかに眉を寄せた。
「……妙ね。取れるはずの場面で、取りにいっていない」
◇
場内。
剣戟が連続して弾ける。
エドは身体を沈め、横へ流し、踏み替える。距離を取ったはずの一瞬、もう目の前にいる。重い踏み込み。圧縮された加速。
一歩、二歩後退。跳ねるように間合いを切る。
龍威の突きを利用して後方へ軽く飛ぶ。空中で身を翻し、着地。数十メートルの距離を稼いだ——はずだった。
龍威の身体が白い光を纏った。一瞬、輪郭がぶれる。
横から、風圧。
心臓が止まるかと思った。身体が本能で跳んだ。
轟音。直前までいた地面が抉れ、爆ぜた。
土煙の中から転がるように立ち上がる。エドの額を汗が伝う。
「……ちょこまかと。ネズミか、お前は」
龍威が大剣を担ぎ上げ、低く吐き捨てた。
「逃げてばかりで、戦う気はあるのか」
エドは答えなかった。剣を構える。
だが——刃先が震えていた。
細い剣身に、亀裂が走っている。それを握る手にも、力が入り切らない。
エドには分からなかった。手首の痛みのせいなのか、それとも別の理由なのか。
頭の中に、あの声だけが響いている。
——『お前のような卑劣な人間のために、あの方は総帥の座を失った』
唇を噛む。胸が激しく上下する。
構えた剣が、ゆっくりと下がった。
「ふん。——臆病者が」
龍威が冷たく笑った。なぜエドが剣を下ろしたのか、彼には分からなかった。
龍威の全身から、白い闘気が噴き上がる。
「この場から消えろ。お前がいる場所じゃない」
踏み込む。一直線の突進。空間ごと押し潰すような圧力。
エドの身体が動いた。
下ろしていた剣を引き、正面から——踏み込んだ。
観衆の息が止まる。
キン。
乾いた音。それだけが、澄んで響いた。
龍威の大剣は振り抜かれている。
だが——その喉元に、折れた刃がぴたりと当てられていた。
笛が鳴った。
「——勝者、エド・ウォーカー」
ざわめきが弾けた。
◇
場内に、二人の呼吸だけが残っていた。
「最初から、やれたんだろう。……なぜ遊んでいた」
龍威の声が低い。
エドが首を振った。
「遊んでたんじゃない。……あんたの言ったことは、合ってる」
エドは視線を落とした。
「俺は、あの人を利用した。あの人の軍なら、倒れた市民を見捨てないと——分かっていたから」
龍威の手に、力がこもった。
大剣が、振り上げられる。叩き潰す軌道。
エドは動かなかった。避ける気配すらない。
刃が——首元で止まった。
場外でアナスが息を呑む気配がした。だが、龍威を止めたのはその音ではない。
龍威自身が——止めたのだ。
「……なぜ避けない」
歯を食いしばった声。
エドはゆっくりと、刃を手で押しのけた。
一歩、龍威の前に進む。顔を上げる。
「あの人は、俺に逃げるなと言った。——だから、俺はここにいる」
声は静かだった。だが、決して揺らがなかった。
龍威が固まった。言葉が出ない。
エドは一つ息を吐き、龍威の横を通り過ぎた。
何も言わず。そのまま。
龍威は動かなかった。ただ歯を食いしばったまま、去っていく小さな背中を見ていた。
◇
城壁の上。
セリーヌは、歩き去る少年の背中を見下ろしていた。
遅れて歓声が届く。衛兵たちの興奮した声も混じっている。
セリーヌは腕を組み、小さく首を傾げた。
「……あのガキ。何を気取ってるのかしら」
口調は軽い。
だが——その目元は、ほんの少しだけ、柔らかかった。




