第17話 罰走
振り抜かれた蹴りが、空中で止まった。
受け止められている。
エドの瞳に、わずかな驚きが走った。即座に足を引き、床を蹴って後方へ滑る。
十メートル先。赤い髪の少年が立っていた。額の両脇から伸びた龍角は太く、ただ立っているだけで空気が重い。
金色の縦瞳が、まっすぐにエドを射抜いている。
「——ずいぶんやってくれたな、クソガキ」
低い声。怒りは抑えられているのに、確かな圧が滲んでいた。
エドは足首を軽く回した。一瞬の接触だけで分かる。さっきまでの連中とは、別物だ。
(桶が邪魔だ——)
足元に置こうと腰を落とした瞬間、視界が歪んだ。
来た。速い。
拳が鼻先をかすめる。間を置かず連撃が重なり、逃げ場を削るように押し寄せてくる。エドは水桶を提げたまま後退し、紙一重でいなし続けた。
(間合いが……広い——!)
そのとき。
「——やめなさい!!」
鋭い声が廊下を貫いた。アナスだ。
エドの意識が、一瞬だけ揺れる。
その隙を、龍威は見逃さなかった。回転を乗せた一撃——直撃は避けた。だがエドの右手から鉄の桶が弾き飛ばされる。
重い桶が空中を舞い、その先に——駆けつけたばかりのアナスが立っていた。
「危なっ——!」
エドが叫ぶ。
だが、アナスは動かない。指先を軽く振った。
ひゅん。
鉄の桶が空中で綺麗に二つに割れた。断面は鏡のように滑らか。中の水だけが弧を描いて散り——ちょうど起き上がったばかりの取り巻き二人の頭上に、容赦なく降り注いだ。
「ぶはっ!?」
ずぶ濡れの二人が呆然と立ち尽くす。
次の瞬間——ドゴン。重い拳が二つ、エドと龍威の頭頂に落ちた。
「いい加減にしなさい、馬鹿ども」
二人が同時にうずくまる。アナスの背後に、ネフリの姿があった。
「——さあ、説明しなさい。何があったの」
アナスの声は静かだったが、咎めるような響きがあった。
エドは頭の瘤を押さえながら口を開いた。
「……罰で立っていただけです。あいつらが先に絡んできて——」
「ふざけるな」
龍威が食い気味に噛みつく。
「総管殿、見ての通りだ。こいつの手口が、どれだけ卑劣か」
アナスの視線が、廊下の惨状を巡った。太った少年が胸を押さえて辛うじて立っている。白髪の一人は膝を抱え、もう一人は太腿を庇っていた。
視線がエドに戻る。
「発端がどちらであれ、廊下での私闘は校則違反。加えて——エド。あなたの反撃は過剰よ。殺す気だったの?」
エドの喉が詰まった。視線を落とし、小さく首を振る。
「……すみません」
「エド、校庭三十周。今すぐ」
「はあ!?」
顔を上げた瞬間——アナスが、にこり、と微笑んだ。
背筋に氷が走った。
「文句があるなら五十周でも?」
「ありません!」
エドが慌てて叫ぶと、横で龍威が鼻で笑った。
アナスがすかさず視線を移す。
「——龍威。あなたも二十周。主導している時点で同罪よ」
「なっ……」
抗議しようとしたが、アナスはすでに背を向けていた。
◇
灼けつく日差しの下、広い校庭に二つの影が伸びていた。
龍威が大股で地面を蹴る。エドは短い脚を高速で回し、食らいつくように並ぶ。
三十周はとうに過ぎていた。
だが——どちらも止まらない。
周囲で見物していた女子生徒たちが、呆れて去っていった。衛兵が交代した。アナスは、とっくに午後のお茶を飲みに行っていた。
それでも止まらない。
口から泡を吹き、足が攣り、視界が揺れても——隣の奴が走っている限り、止まるわけにはいかなかった。
結局。二人とも動けなくなるまで走り続け、観客のいない校庭で、同時に崩れ落ちた。
引き分け。
◇
夕焼けが、宿舎の階段を赤く染めていた。
二つの影が、手すりにしがみつきながら這い上がっている。
「俺の方が……先だ……」
龍威が荒い息を吐きながら呻く。
「幻覚見てんのか……蜥蜴」
エドも負けじと言い返した。
龍威が手すりに体を預け、震える腕でようやく顔を上げた。
「後日の……実戦テスト……逃げるなよ。今度は本気でやる」
エドは一段上で足を止めた。振り返らない。肩だけで息を整える。
「望むところだ。泣くなよ」
「誰が——!」
龍威が踏み出そうとした瞬間、足が崩れた。手すりを掴んで辛うじて堪える。
「……けっ。野猿なんかに構ってられるか」
吐き捨て、背を向ける。鉛のような足を引きずりながら、二階の廊下へ消えていった。
エドは震える脚で二段ほど登り、そこで止まった。見下ろす。
「——おい、赤蜥蜴」
「……何だ」
下の階から、不機嫌な声が返る。
「俺の部屋、お前の真上だ」
エドは短く、上を指差した。
「毎晩、頭の上で踏みつけてやるから。ありがたく思え」
「——てめぇッ!!」
龍威の怒声を聞く前に、エドは手足を使って三階への階段を這い上がっていた。速いとは言えない。だが止まらない。
屋根裏部屋の扉が閉まった。
音が消えた瞬間——。
壁にもたれたまま、力が抜ける。膝が折れ、身体がずるりと床へ落ちた。
荒い呼吸だけが、静かな部屋に残る。




