第15話 兆し
——振動。
腕輪が強く震えて、目が覚めた。いつの間にか机に突っ伏していたらしい。窓の外は、すでに暗く落ちていた。
「やば……!」
軽く顔を洗い、エドは慌てて部屋を飛び出した。
宿舎のホールには、見習いたちが整列していた。だが——何人かが、さりげなく口元を押さえている。
エドは周囲から向けられる嫌悪の視線に気づき、自分の身体を嗅いだ。
(……昨日、風呂に入ってなかった)
周囲に申し訳なさそうな笑みを向けてみるが、誰も目を合わせようとはしない。細かな嘲笑だけが耳に届く。
視界の端には、あの赤髪の少年の取り巻きたちがいた。本人は前を向いたまま無反応だが、周囲の空気は刺々しい。
(おかしいな……別に何もしてないのに……)
◇
アナスが各班に清掃の任務を割り振り、それぞれが浮遊車へ乗り込んでいく。
エドは、レーナたちの車に向かおうとしなかった。
「おい、新入り。何突っ立ってんの」
レーナが車内から催促する。
「あの……先に行っててください。俺、後から追いつきます」
エドは自分の胸元の襟を摘んだまま、気まずそうに目を逸らした。
「くだらないこと言ってないで、早く乗りなさい」
ネフリが冷たい声で遮る。
「でないと——もう二度と、乗せないから」
エドは少し目を見開いた。
班の面々を見る。全員、冷淡な顔だ。だが——その目は「早くしろ」と語っていた。
エドは小さくため息をつくと、駆け寄って車に乗り込んだ。
「まったく、もたもたしないでよ」
メンバーから小言が飛ぶ中、レーナが元気よく叫ぶ。
「出発!」
浮遊車が勢いよく発進した。
車内では、いつものように談笑が始まる。エドには分からない話題ばかりで、誰も話しかけてはこない。
けれど——嫌悪の目では、見られていなかった。
それだけで、少しだけ胸が軽くなった。
◇
「ふあ……ぁ……」
エドが大きな欠伸をかみ殺しながら、だるそうに目をこすった。
(まずい……)
「大丈夫なの」
隣からネフリの声がした。心配の色はあるが、口調はいつも通り冷たい。
「平気です」
へへ、と笑い、エドは手元の棚を拭き続ける。
「昨日、何してたの」
ネフリは銀器を磨きながら聞いた。
「本を読んでたら、いつの間にか寝てました」
「……は?」
ネフリの尖った耳がぴくりと跳ねた。
「本気で言ってるの? 一晩中?」
「だって、本当にたくさんあるんですよ。あの腕輪と机を繋ぐと、ものすごい量の本が読めるんです」
エドが清掃具の先端部品を交換した。その目から、疲労の色が消えていく。
「医術も薬学も、知らないことばかりで——」
声がどんどん熱を帯びていく。
エドの目が輝き始め、手の中の清掃具を振り回しながら、昨夜読んだ内容を語り出した。ネフリは最初こそ冷ややかな顔だったが、次第に興味深そうに耳を傾け始める。
——だが、エドが清掃具を危うく振り回しすぎた瞬間。
「——止めなさい。分かったから、先に手を動かして」
ネフリが低い声で制した。
「あ、すみません」
エドは照れくさそうに笑い、作業に戻る。
ネフリは少し間を置いてから、銀器に視線を落としたまま言った。
「……ところで、昨日はずっと本を読んでいたのよね?」
「はい」
「つまり——宿題は、やってないわよね?」
エドの手が、止まった。
ぱちぱちと瞬きをして、ゆっくりとネフリを振り返る。
「……宿題? 宿題って、何ですか?」
ネフリの動きも一瞬止まった。緩慢に振り向いたその目は、呆れ果てていた。
エドは首を傾げたまま、状況が飲み込めていなかった。
◇
朝の清掃と朝食を終え、学舎へ。
鐘が鳴ると間もなく、ミランダがヒールの音を響かせて教室に入ってきた。
何人かの宿題を褒めた後、彼女は鋭い視線を向けた。
「エド・ウォーカー」
「はい」
エドは背筋を伸ばして立ち上がった。
「あなたの宿題は?」
「……申し訳ありません。昨夜、本を読むのに夢中で……忘れました」
ミランダが教壇の上で指をコツ、コツ、と規則的に叩く。
「初日の宿題を忘れるとは、いい度胸ね」
「本当に申し訳ありません」
エドは深く頭を下げた。
ミランダは軽く息を吐くと、教室の後方を教鞭で指した。
「今日は、立って聞きなさい」
「……はい」
エドは反論せず、静かに後方の隅へ移動した。
だが——赤髪の少年の近くから聞こえてくるひそひそ声と、小さな笑い声が肌に刺さる。
(……こいつら、本当に……)
エドは奥歯を噛み締めた。
◇
授業が終わり、エドは席に戻って机に突っ伏した。
(やばい、本気で限界だ……)
「あんた、大胆ねぇ。初日の宿題を忘れるなんて」
レーナが茶化すように笑う。
「わざとじゃないんです……」
エドが力なく答えると、レーナは彼の肩をポンと叩いた。
「ほら、しっかりしなさい。次は錬金教室よ」
「……本当に大丈夫?」
ネフリの声が、静かに重なった。
エドは顔を上げ、無理やり笑みを作る。
「大丈夫です。ちょっと……眠いだけですから」
へらりと笑って見せたエドを、ネフリはしばらく見つめ、何も言わずに視線を外した。
◇
錬金教室に足を踏み入れた瞬間、奇妙な匂いが鼻をついた。
透明な器具。複雑な管。冷たい光を放つ球体。
(完全に、分からない……)
エドが教室を見渡していた、その時。
肩を、後ろから強く突かれた。
バランスを崩し、前へよろめく。
ぶつかった——柔らかい感触。
「きゃっ」
短い悲鳴。エドは弾かれたように飛び退いた。
目の前で、ネフリが顔を真っ赤にしてお尻のあたりを押さえていた。
「す、すみません! わざとじゃ——」
ネフリが振り向く。怒りの矛先を探すように。
その視線の先——赤髪の少年の取り巻きが数人、にやにやと笑っていた。
「うわぁ、大胆だねぇ、クソガキ」
ネフリの眉が吊り上がった。
「あなたたち——」
言いかけた、その瞬間。
隣から、ギリ、ギリ、と不快な音が聞こえてきた。歯を激しく擦り合わせる音だ。
エドが、取り巻きたちを射抜くような目で見ていた。
その掌には、いつの間にか——数本の鋭い釘が握られている。
ネフリの瞳が、わずかに見開かれた。
(この子——いつ、どこからそれを取り出したの……?)




