第13話 手合わせ
お茶を飲み終え、アナスが立ち上がった。
「そろそろ失礼するわ。まだ仕事が残っているの」
エレナの瞳に、わずかな陰りが差した。
「せっかく会えたのに、もう帰るの?」
「また会えるでしょう。あなたから城に来てもいいのよ。セリーヌ様も歓迎なさるわ」
「……ふん」
不満げに頬を膨らませるエレナ。だが——目が、すっと細くなった。
「じゃあ、こうしましょう。帰る前に——軽く、手合わせしてくれたら、大人しく見送ってあげる」
「……あなたね」
アナスは小さく息を吐いた。
「学院でも散々やっていると聞いたけど」
「足りるわけないでしょ」
エレナは即答した。声に、はっきりとした熱が混じっている。
「あと三ヶ月で『ヴァルキュリア武闘大会』よ。今の自分がどこまで通用するのか、確かめたいの」
「月怜様に見てもらえばいいでしょう。師匠がいるのに」
「……あの人には、三手ももたないわよ」
途端にしょぼくれるエレナ。
「なら、私相手に何手もつつもり?」
「十手はいける!」
むっとして言い返す。アナスはくすりと笑った。
そのやり取りを見ながら、エドの胸に期待が灯る。ちらりとアナスを見た。
赤い瞳が、こちらを向いていた。
エドは反射的に視線を逸らした。
「——まぁいいわ。先に月怜様の下で五手もってからにしなさい」
アナスは軽く笑い、一礼して背を向けた。エドも慌てて後に続く。
「つまんない……」
エレナが頬を膨らませたまま、二人の背中を見送っている。
——その目が、ふと光った。
ヒュッ——!
空気が裂けた。
エドは反射的に振り向いた。だがアナスは振り向かなかった。
振り向く必要がなかった。
ふわり。
次の瞬間、アナスの腕の中に、エレナの大きな身体が収まっていた。いつの間に向き直ったのか、まるで最初からそうしていたかのように。
エドは目を見開いた。
(速い——! いつ動いた……!?)
「お嬢様」
アナスが見下ろす。腕の中で、エレナの顔が真っ赤になっていた。
「寝転がりたいなら、ベッドの方がよろしいかと」
「……っ!」
エレナが唇を噛む。だが——口元に、得意げな笑みが浮かんだ。
「身のこなし、前より速くなってません? 先輩」
アナスは静かにエレナを下ろした。
「不意打ちするなら、せめて呼吸と殺気を整えなさい。力任せに突っ込むだけでは——実力のある相手には、魔力すら使わず投げ飛ばされるわよ」
「ふん。そうしないと、先輩は付き合ってくれないでしょ?」
エレナの足が床を踏んだ瞬間——目が、変わった。
ジジッ——!
魔力が全身を覆う。青い光が身体を包んだ。
——次の瞬間。手刀が、アナスの首筋に走った。
「この子は……!」
アナスの瞳が収縮し、手首を弾く。
そのまま踏み込んでくるエレナ。肘打ち、膝蹴り、掌底。間断のない連撃が至近距離から叩き込まれる。
だがアナスは、そのすべてを最小限の動きでいなしていく。
(……見えない)
エドは壁際で息を呑んでいた。速いのはエレナのはずなのに、完全に捉えられているのは彼女の方だった。
重い肘打ちをいなした勢いで、アナスが後方へ跳んだ。距離が開く。
対峙。
アナスは涼しい表情のまま、肩をわずかに揺らしている。時折、裾を軽く払うような仕草。
エレナは自信の笑みを保っていたが、額に汗が滲んでいた。薄いワンピースが肌に貼りつき始めている。
——その視線が、アナスの重心の変化を捉えた。
前に出る予備動作。微かな、だが確かな。
迷いはなかった。
エレナが地を蹴った。跳躍。膝が、顔面を狙う。
(来る——!)
エドは拳を握った。
だが。
空中でエレナの身体が捻れた。膝蹴りの軌道が崩れ——長い脚が横薙ぎに変わる。
(見事な変化だ……!)
エドの目が輝いた瞬間。
パシン。
足首を、掴まれていた。
「え——」
エレナの声が途切れた。バランスが消える。アナスの手が胸元を軽く押した。
どん。
エレナの身体がソファに沈んだ。反発する間もなく、アナスの指先が喉元に添えられている。寸止め。
指先の冷たさが、エレナの呼吸を止めた。
「——遊びは終わり?」
見下ろす声は、静かだった。
数秒の沈黙。
「……ふふっ」
エレナの唇が綻ぶ。瞳には悔しさよりも、燃えるような興奮。
「ありがとう、先輩!」
「あなたね……」
アナスは呆れたように、エレナの額をぴんと弾いた。
「痛っ!」
「少しは淑女の自覚を持ちなさい」
立ち上がり、裾を整え、扉へ向かう。
途中でふと足を止めた。振り返らずに言う。
「着替えなさい。汗だくのそのままでは——うちの坊やに、色々見られてしまうわよ?」
「……え?」
エレナが目を瞬いた。
「行くわよ、坊や。いつまで見ているの」
アナスは壁際のエドの頭をぽんと叩き、襟首を掴んで引きずるように連れ出した。
「え、俺、何も見て——」
扉が閉まった。
屋内に静寂が落ちる。
エレナはソファに座ったまま、アナスの言葉を反芻していた。
(見られる……?)
(何を……?)
ゆっくりと、視線を自分の身体に落とす。
汗で透けた薄い生地が、肌にぴったりと貼りついていた。
「——きゃああああああああああッ!!」
悲鳴が、館を揺らした。




