第11話 鏡の前
シルウィード城、主食堂。
午後の光が窓から差し込んでいる。
セリーヌは主座に腰掛けていたが、目が半分しか開いていなかった。黒髪が片側に乱れたまま、白磁のカップを両手で包んでいる。紅茶の湯気が、ぼんやりした顔の前で揺れていた。
傍らでアナスが、エドの初日の様子を簡潔に報告していた。
「——以上です」
「……ん」
セリーヌは生返事をした。カップを口に運ぶ。少し熱い。眉がわずかに寄った。
「ねえ、アナス。あなたは、あの子をどう見る?」
「行動力は優秀です。判断も速い。ただし——常識と基礎知識が著しく欠如しています」
セリーヌはカップを置いた。
「あなた、本当にそういう話がしたいの?」
アナスの表情がわずかに揺れた。小さく息を吐く。
「……正直に申し上げれば、不明点は多いです。ですが、最終判断は主に従います」
セリーヌはくすりと笑い、椅子の背にもたれた。
「分かっているのよ。彼を連れてきた時点で、どういう反応になるかくらい」
少しだけ、横顔に影が落ちる。
「私が受けるのは、ただの批判よ。でも——あの子が受けてきたものは、そんな程度じゃない」
アナスは黙って聞いていた。
セリーヌは振り返った。ほんの少しだけ、柔らかく笑う。
「できればね。"普通の子供"として、育ててあげたいの」
アナスは目を閉じた。数秒。そして深く一礼する。
「……承知しました」
「そうだ、忘れるところだったわ」
セリーヌは腰元の空間に手を差し入れ、一本の剣を引き出した。細身の刀身。白革に包まれた柄に、青い宝石と精緻な刻印。
「これを、後でエレナに渡しておいて。サンドラへの"詫び"ってことで」
アナスは丁寧に受け取った。苦笑が漏れる。
「……あの子、狂喜乱舞しますよ」
「ふふ」
セリーヌは楽しそうに笑った。それから、欠伸を噛み殺しながら付け足す。
「ついでに、あの子を連れて公都を少し回ってあげて。環境くらいは知っておかないとね」
「承知しました」
◇
同じ頃。学舎。
澄んだ鐘の音が響き渡る。
「——それでは、午前の授業はここまで」
教師の声と同時に。
ドサッ。
エドは力尽きたように机へ突っ伏した。
「……むりだ……」
かすれた声が机の上に溶ける。教室を出ていく生徒たちが、ちらりとこちらを見てくすくすと笑いながら去っていく。
やがて——静寂。
エドはゆっくりと顔を横に向けた。窓の外には澄み切った青空。
(みんな……すごいな)
(俺みたいなのが……ここにいていいのか……?)
まぶたが重くなる。思考が沈んでいく——。
ビ——ッ! ビ——ッ!!
鋭い電子音が意識を突き刺した。
エドは椅子ごとひっくり返りそうになりながら飛び起きる。腕輪が激しく震え、空中にホログラムが展開された。
『エド・ウォーカー。直ちに東側塔楼へ来なさい。座標は送信済み。急ぎなさい』
「え……?」
『ぼんやりしている暇はないわ。すぐ動きなさい』
通信が切れた。
顔を上げて——固まった。
教室に、人の気配が一切ない。白い日差しが床に差し込み、長く歪んだ影を作っていた。静かすぎる。
記憶の底が、勝手に掘り起こされた。
誰もいない村。静まり返った家々。笑っていた"あの人"の顔が——裂けた。
「……っ」
瞳孔が、収縮した。
無意識に、手が後ろ腰へ伸びる。
——空を掴んだ。
エドは呆然と、空の手のひらを見つめた。そして自分の身体——侍従の制服を見下ろし、ようやく我に返る。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「ここは……城の中だろ……」
頬を強く叩いた。教室から飛び出す。
廊下を駆けながら、腕輪の地図を開いた。表示されたルートを見て、眉をひそめる。
(このまま走ったら……間に合わない)
視線が、自然と上へ向いた。回廊の屋根。さらに先の塔楼。
迷いはなかった。バルコニーへ飛び出し、欄干に足をかけ——踏み切った。
風が耳元で唸る。身体が軽い。
対面の屋根へ着地しようとした瞬間——。
ヴゥン——!!!
赤い魔法陣が足元に展開した。恐ろしい重圧。身体が千斤の岩のように沈む。
ベシャッ!!
瓦の上に叩きつけられた。三つの影が空を裂く。
「動くな!!」
魔導衛兵が取り囲む。槍と銃口が頭部へ向けられた。
(——殺される)
身体が凍りつく。魔法陣の圧力だけではない。
「ま、待って……! 俺は——」
「黙れ!」
隊長が通信を取る。
「——総管殿。警戒網に反応した不審者を確保。侍従の制服を着用、だが行動に異常あり」
◇
主食堂。
アナスの腕輪が鳴った。投影を開き、数秒聞いて——小さく息を吐いた。
「……把握しました。彼は見習い侍従のエド・ウォーカーです。道に迷っただけですので、東側塔楼へ連行してください」
通信を切る。
「……はぁ」
深い、深い溜息だった。
セリーヌはカップを持ったまま固まっていた。
「……屋根を、跳んだの?」
「防衛結界に捕まったようです」
沈黙。
セリーヌの目が、虚空を見つめている。口元が引きつり、何かを堪えているようにも見えた。
アナスは剣を抱え、静かに一礼した。
「では——先に参ります。あの子を引き取り、そのまま任務へ向かいますので」
「……ええ。お願い」
足音が遠ざかる。扉が閉まった。
◇
静かな食堂に、セリーヌだけが残された。
(……あのガキ、城を自分の庭だと思っているのかしら)
カップを置く。指先で、こめかみを押さえた。
(屋根を跳ぶ……防衛結界に引っかかる……衛兵に取り囲まれる……)
頭が痛い。
ふと——昨夜のことが蘇った。
露台から見下ろした、あの少年の顔。こちらを見上げて、固まっていた。だから——少し、笑ってみせただけだ。
それだけで、倒れた。
セリーヌは紅茶を一口飲み、カップを静かに置いた。
視線が、壁に掛かった鏡へ流れる。
立ち上がった。ゆっくりと、鏡の前へ歩む。
映っているのは、黒髪を片側に流した自分の顔。寝起きのせいか、少し気怠い目元。
右を向く。左を向く。軽く——笑ってみた。鏡の中の自分が、穏やかに微笑み返す。次に、眉を寄せてみる。怒った顔。また正面に戻る。
(……どこが、老けて見えるのよ)
腕を組んだ。
(多少、若い娘より落ち着いて見えるかもしれないけれど——それは"成熟"であって、"老い"とは違うわ)
ふん、と小さく鼻を鳴らした。
頬が、ほんのわずかに赤い。
セリーヌは鏡に背を向け、乱れた髪を指で梳きながら食堂を出た。




