第10話 学舎
眩しい。
ゆっくりと、瞼を開ける。白い天井。柔らかな光。
「……起きたのね」
左から声がした。振り向くと、アナスが腕輪の投影画面を操作している。
「……ここ……俺の部屋……?」
「そうよ」
アナスは淡々と答えた。
「昨夜、仕事の疲れで気絶したの」
「……え?」
エドは記憶を辿る。医務室を出て。暗い廊下。光る花。露台。白い衣。
——あの笑顔。
胸が、どくりと鳴った。
「……あれ、俺……疲れじゃない気が……」
「寝ぼけてるの?」
アナスの声が、すっと冷えた。ゆっくりと彼女の視線がこちらへ向く。
「あなたは——疲れて、倒れたの」
一語ずつ区切られた、有無を言わせない響きだった。
数秒の沈黙。エドは瞬きを繰り返し、頭をぽりぽりと掻いた。
「はい……めちゃくちゃ疲れて、倒れました」
アナスはしばらく無言でエドを見つめ、やがて小さく頷いた。
「ならいいわ」
立ち上がり、扉の方へ向かいながら告げる。
「早く身支度を整えて。これから授業よ」
「……え?」
エドは固まった。
「授業? ……俺が?」
◇
浮遊車は城内の回廊を滑り、やがて簡素な造りの棟の前で止まった。
「ここは見習い侍従のための教育機関。つまり、あなたのための場所よ」
アナスの言葉に、エドは目を丸くした。
彼女はそのまま歩き出し、振り返ることなく言い切る。
「これからは労働だけでなく、学習も任務の一部になる。評価はすべて記録されるわ。成績次第で、配属も、待遇も、将来も変わる。——理解している?」
「は、はい!」
「それと——その間の抜けた顔、どうにかしなさい」
アナスの視線が、わずかに鋭くなった。
「昨夜のことは、忘れなさい」
空気がひやりと冷えた。エドの喉が鳴る。
「え……あの、それって——」
エドは言いかけて、止まる。アナスの視線が完全に「黙れ」と語っていた。
「……はい」
小さく頷く。
(忘れろって言われても……無理だろ……)
アナスは背を向けたまま歩き出し、エドは慌ててその後を追った。
やがて一枚の扉の前に着くと、アナスが腕輪をかざした。小さな電子音とともに、扉が左右に滑る。
広い。明るい。
教室の中央に整然と机が並び、見習い侍従たちが座っている。男女混在だが、やや女性が多い。
視線が、一斉にこちらへ向いた。
正面の教壇には、緩く波打つ青い髪の女性が立っていた。きっちりとした制服に、手には細い教鞭。背後に複数の投影ウィンドウが浮かんでいる。
「失礼いたします、ミランダ先生」
アナスが声をかけると、ミランダが一礼した。
「総管殿」
そのやり取りに、教室内の見習いたちが、一斉に背筋を伸ばす。
アナスは教室を見渡して告げた。
「本日より、新たに一名を配属する。以後、同じ学舎の生徒として共に学ぶことになる」
わずかに体をずらし、エドが前へ押し出された。
空気が揺れた。好奇。警戒。そして——わずかな敵意。
「前へ。自己紹介を」
アナスに促され、エドは前に出た。
「は、はいっ!」
声が裏返った。教壇に立つ。無数の視線。喉が乾く。
それでも——息を吸った。
「初めまして! エド・ウォーカーです! 人間です!」
教室がわずかにざわつく。だがエドは構わず、さらに声を張った。
「分からないことばかりですが……全力で頑張ります! よろしくお願いします!」
深く頭を下げた。九十度。
静寂。それから——ざわり、と波が立つ。小さな囁き。
エドが顔を上げた。視線の大半は、歓迎とは程遠いものだった。
教室の一角。赤髪の少年。こめかみから龍のような角が伸びている。隠す気のない不快感が、その目に浮かんでいた。
「……静粛に」
アナスの咳払いで、ざわめきが消えた。
「彼に関する無用な詮索や噂話は禁じる。違反は——それ相応に処理するわ」
空気が凍った。
アナスはミランダへ視線を移す。
「この子は基礎が不足している。重点的に見てあげて」
「承知しました」
ミランダが眼鏡を押し上げる。その目は、しっかりとエドを観察していた。
エドは指定された席へ歩いた。視線が背中に刺さる。椅子に座り、小さく息を吐く。
誰も話しかけてこない。距離。壁。
◇
「学ぶ」という行為は、エドにとって——これまでの人生で、ほとんど縁のないものだった。
目の前の机が淡く発光する。黒い天板の上に半透明の投影パネルが浮かび上がり、文字や図形が流れていく。
かつての自分は、故郷の仇を討てば、また流浪の日々に戻るだけだと思っていた。
だが——今、ここにいる。
机がある。椅子がある。教師がいて、同じ制服を着た者たちが周りにいる。
それは、あの人がいたからだ。
あの人が、手を差し伸べたからだ。
——露台。白い衣。月明かりに揺れる黒髪。ふと振り返った横顔。そして——。
笑った。
あの瞬間の記憶が、不意に鮮明に蘇った。心臓が跳ねる。頬が熱くなる。投影パネルの文字が、全く入ってこない。
ひゅ、と空気を裂く音。
青い光弾が一直線に飛び、エドの額に命中した。
「ぎゃっ!?」
バチィッ!!
火花が散り、全身がびくんと跳ねた。
ガタン!!
「あ"あ"あ"あ"……っ!」
額を押さえ、床に転げ落ちる。焦げた匂いが、わずかに漂った。
教室が静まり返っている。
ミランダが教壇の上から見下ろしていた。指先に、まだ微かな光が残っている。眼鏡の奥の目が、笑っていない。
彼女は冷たく告げ、一歩、前へ出た。
「随分と大胆ね、新入り」
「私の授業で居眠りするだけならまだしも——呼んでも返事をしないなんて。初日から、いい度胸だわ」
「す、すみません!」
ミランダは教鞭で教室の隅を指した。
「今日はそこに立って聞きなさい」
「……はい」
エドは肩を落とし、壁際へ移動した。
背後で、笑いがこぼれる。くすくすと、あちこちから。
赤髪の少年の近くからは、ひそひそと囁き声。
レーナが机の下で端末を操作しながら、口元を歪めて笑っている。
その前の席。ネフリは背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。
振り返らない。ただ——。
「ばか」
小さく、ぽつりと。
エドの耳に届いたかどうかも分からない。その声は教室の空気に溶け、誰にも拾われなかった。




