第9話 月下の笑顔
宴の客が、ゆっくりと帰り始めていた。
酔いの回った者同士が肩を貸し合い、笑いながら城門へ向かっていく。唯一まだ賑やかなのは城の外だった。夜が更けてもなお、花火が夜空に上がり続けている。
エドは西側庭園の出口付近で、客を見送っていた。
ふと、右手に目を落とす。先ほど医務室で塗られた薬が、薄い青色の光を放っている。傷口はすでに塞がりかけていた。
(効き目はすごいけど……)
発光する手で会釈するたびに、客の視線が一瞬そこへ落ちる。
(……ちょっと目立つな、これ)
そのとき。
「あの——」
背後から声をかけられた。振り向くと同時に、半歩退いた。
数人の女性が立っている。下半身が——蛇だった。鱗に覆われた長い胴が、地面を滑るように蠢いている。ラミア。
エドは姿勢を崩さず、穏やかに言った。
「何かお手伝いしましょうか」
「この子たち、飲みすぎちゃって……門まで送ってもらえないかしら」
エドの目が、その後ろへ動いた。五人。うち三人が完全にできあがっている。目が据わったまま意味不明なことを呟く者。ぐにゃぐにゃと蛇身を揺らして半分寝ている者。もう一人は、仲間の肩に頭を預けて動かない。
体型はそこまで大きくないが——酔っている。
視線を戻す。声をかけてきた女性の顔を見た。困ったような、申し訳なさそうな笑み。
「……分かりました。手伝います」
(……まさか、また騙されてないよな)
一番静かなラミアを背負った。ぐったりと体を預けてくるが、暴れる気配はない。
門へ向かって歩き出した。
◇
ふらつく蛇身が石畳を擦り、呂律の回らない声が夜に溶けていく。
「ぁあ〜……もう飲まないぃ〜……」
「嘘つけ、さっき三杯おかわりしてたでしょ!」
「してないぃ〜……四杯だもん……」
「増えてるわよ!」
声をかけてきたラミアが、エドに振り返って苦笑した。
「本当にごめんなさいね。いつもはもう少しまともなのよ、この子たち……」
「大丈夫ですよ」
エドは笑った。
(背中のこの人は静かだし。まだ運がいい方だ——)
その瞬間。
首筋に——温かい吐息。
「……え?」
ちゅ。
柔らかな唇が、首の横に触れた。
「ちょっ——」
甘噛み。ぞわり、と全身に鳥肌が立った。言葉が出る前に——蛇身がするすると巻きついてきた。腰から胸へ。締まる。
「ぐっ——」
「ダリウス……帰ってきたの……ダリウス……」
知らない名前を呼びながら、酔ったラミアがエドの身体を締め上げた。蛇の筋力は容赦がない。肋骨が軋む。
「たす——誰かっ——!」
「ちょっとアンタ! 離しなさい!!」
仲間たちが慌てて引き剥がそうとする。だが酔った蛇は動かない。
視界が暗くなっていく。
遠くで、重い足音が聞こえた気がした。
——それきり、意識が途切れた。
◇
明るい。
ゆっくりと、瞼を開けた。
白い天井。柔らかな光。見覚えがある。
「……ここ……」
『おはよう、エドくん。——いいえ、こんばんは、かしら』
淡いピンク色の魔導人形が、腕を組んで立っていた。丸みを帯びた小さな体。顔の表示パネルが、赤く点滅している。
『一晩に二回も運ばれてくる子、初めてよ? あなた、自分の身体をなんだと思ってるの』
「……すみません」
エドは苦笑しながら起き上がった。首に手を当てる。少し痛い。
『窒息寸前だったのよ。衛兵さんが来なかったら、大変なことになってたわ』
「は、はい……気をつけます」
『気をつけます、じゃないの!』
パネルがさらに赤くなった。
『いい? もう来ないでね。来なくていいように、自分の身体を大事にしなさい!』
エドは背筋を伸ばした。
「はい!」
扉の前で振り返り、手を振った。
「ありがとうございました! ——今度は怪我じゃなくて、勉強しに来ます!」
『もう! ……ふん、まあ、それならいいけど』
パネルの色が、ほんのりピンクに戻った。
エドは笑って、廊下へ出た。
◇
足を踏み出して——止まった。
暗い。
廊下の灯りが、すべて落ちていた。窓から差し込むのは月の光だけ。さっきまでの喧騒が嘘のように、音が消えている。
腕輪の時刻を見て、小さく息を吐いた。
「……そりゃ、誰もいないか」
地図を開く。文字は読めない。矢印だけを頼りに歩き出した。
だが——同じような廊下が続き、似たような庭園が現れる。
「……完全に迷ったな」
足が止まった。
ここは、さっきまでの場所と空気が違っていた。
静かすぎる。庭に咲く花々が、夜だというのに淡く光を放っている。青、紫、白——幻想的な光が足元を柔らかく照らしていた。
視線を上げる。尖塔のように高い建造物。その上部に、露台。
そこに——人影があった。
風が、吹いていた。
白い薄衣が、ふわりと揺れる。月明かりの中に、長い脚のラインが浮かび上がっていた。黒髪が風に流れ、指先で軽く払う仕草。頬杖をつく横顔。わずかに傾いた首。
その一連の動きが、あまりにも自然で。
あまりにも——綺麗で。
エドの足が、縫い止められた。
心臓が、鳴り始めた。
露台の上で——彼女が、こちらに気づいた。
一瞬、驚いた顔。次に、眉が寄る。なぜここにいるのか、という怒気。
だが——ふと、首をわずかに傾げた。
下で固まっている少年を、不思議そうに見つめている。
ぷっ——。
笑った。
なぜ笑ったのかは、分からない。
エドの視界から、周囲が消えた。
白い。何もかもが白い。目の前にあるのは——高い場所で笑う、あの人だけ。
天地が、回った。
身体が何かにぶつかる感触。視界が白から黒へと落ちていく。
遠くで——焦った声が聞こえた。鋭く、切迫した声。




