第7話 白い杯
宴が進むにつれ、人はさらに増えた。
レーナが戻ってきた時には、すでに顔色が変わっていた。
「ちょっと手貸して。中庭のほう、魔導人形だけじゃ回らなくなってるの」
ネフリが小さく肩をすくめた。
「……しょうがないわね」
二人は中庭へ向かった。
中庭は別世界だった。ステージでは妖精たちが歌い、リズムの強い音楽に合わせて観客が踊り、笑い、酒を飲んでいる。テーブルは何十も並び、百人以上の客がいた。
仕事は単純だ。使い終わった皿や杯を回収し、所定の場所へ運ぶ。だが——とにかく広い。
「失礼します。お皿、お下げしますね」
背が低く手が届かないこともある。だが客が手伝ってくれた。
「大丈夫かい?」
「平気です、これくらい」
十枚以上の皿を軽々と持ち上げ、台車に置く。軽く会釈して、次のテーブルへ。
そのエドの動きを——離れた席から、冷たい視線が追っていた。
一人の客が手元の端末を操作する。映し出されたのはニュース記事。エドの顔写真と、大きな見出し。
「……やっぱり、こいつだな」
隣のサキュバスが頷いた。指先に、淡い紅色の魔力が灯る。手元の杯の中へ、静かに落とす。黄金色の酒が——ゆっくりと、白く変わっていった。
◇
しばらくして。
「ねぇ、そこの可愛い子」
甘い声。振り向くと、数人の女性がテーブルに座っている。整った容姿。そのうちの一人が手を振っていた。
「こっちよ」
「俺……ですか?」
女性たちがくすくす笑う。エドは慌ててテーブルへ向かった。
「この瓶なんだけど、引き輪が折れちゃって開かないのよ。手伝ってくれる?」
サキュバスが酒瓶を差し出した。エドは受け取り、力を込める。ぎりっ。金属が擦れる嫌な音。
「きゃっ!」
「す、すみません!」
さらに力を入れる。ぐっ——パキン。
ボンッ!!
泡が噴き出した。白い泡がエドの顔に直撃する。
「うわっ——ごほっ、げほっ!」
目が開けられない。酸っぱい匂いが鼻に入り、思い切りむせた。
女性たちが慌てて立ち上がり、エドを囲んだ。タオルで顔を拭く。
——サキュバスが、一瞬だけ動きを止めた。泡が顔に直撃するとは思っていなかった。だがすぐに表情を切り替え、手元の杯を掴んで立ち上がる。
「大丈夫? 坊や」
心配そうな声で、エドのそばへ駆け寄った。
「ほら、お水よ。喉、痛いでしょう」
「……ありがとうございます」
エドはまだ目を赤くしていた。咳き込みながら、杯を受け取る。口元へ運んだ。
——唇に触れる直前。
エドの眉が、わずかに動いた。
大きく咳き込んだ。手が震え、白い液体が少しこぼれる。
「まあ、大丈夫?」
サキュバスの手がエドの背中をさすり始めた。もう片方の手が、不自然にエドの手首——杯を握った手に、添えられる。
「無理しないで。ほら、少しでいいから飲んで」
柔らかな声。急かすような指先。
エドは顔を上げた。笑った。
そのまま杯を口元へ運ぶ。
女性たちが、わずかに息を止めた。
——エドの指が、力を込めた。
パキン。ガシャッ!!
杯が砕け散った。破片が手のひらに食い込む。赤い血が、ゆっくりと流れ落ちた。
女性たちが顔を見合わせた。
◇
「ちょっと、何の騒ぎ?」
鋭い声。ネフリが駆け寄ってきた。
エドの手を見た瞬間、眉が寄る。腰のポーチから蒼いシルクの細帯を引き出し、エドに押しつけた。
すぐに腕輪を操作し、空中に地図を浮かべる。
「医務室。ここからすぐよ。地図の通りに行きなさい」
「ネフリ先輩……」
エドが何か言おうとした。ネフリの視線がわずかにそれを制する。
エドは口を閉じた。目に、すまなそうな色がよぎる。小さく頷き、蒼いスカーフで右手を押さえながら、背を向けた。
小走りに、去っていく。
女性たちがその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「ごめんなさいね。こんなことになるなんて……」
サキュバスが申し訳なさそうに言う。
ネフリは微笑んだ。
そしてゆっくり立ち上がる。笑顔のまま。だが——その目は、冷えていた。
「ここは、シルウィード様のお城です」
穏やかな声。温度はない。
「お客様。これを総管殿にお渡ししたほうがよろしいでしょうか」
血のついた破片を、軽く掲げる。
「それとも——ご自身でお帰りになりますか?」
女性たちの顔色が変わった。互いに視線を交わす。やがて一人が立ち上がった。
「……今日は、ごちそうさまでした」
それを合図に、全員が席を立つ。誰もネフリと目を合わせないまま、足早に去っていった。
ネフリは小さく鼻を鳴らし、足元に散った白い破片を見下ろした。
「……面倒なガキ」
呟きは小さかった。
◇
廊下。
エドは左手首の腕輪に地図を浮かべ、足早に歩いていた。右手は蒼いスカーフに包まれたまま、胸元に抱えている。
投影された矢印を目で追う。角を曲がる。次の角を——。
ドンッ。
「うわっ!」
尻もちをついた。右手を庇い、左手で身体を支える。
「あら、大丈夫? 坊や」
頭上から、声が降ってきた。
澄んでいて、柔らかい。鈴を転がすような声音だった。思わず顔を上げる。
心配そうに身を屈めた少女が、こちらを覗き込んでいた。淡い金色の髪が肩から流れ落ちている。
——目が合った。
少女の表情が、止まった。
心配の色が消える。瞳の奥に、別の何かがよぎった。
ゆっくりと、背筋が伸びていく。身を屈めていた姿勢から、一息で真っ直ぐに立ち上がった。
遠い。
純白のドレス。すらりと長い脚。深い青の瞳が——はるか高い場所から、見下ろしている。
「……ふん。今日はついてないわね」
冷たい声。さっきまでの柔らかさは、影も残っていなかった。
「こんなところで、ネズミにぶつかるなんて」
エドの体が先に動いた。壁際へ下がり、深く頭を下げる。
「……申し訳ありません」
少女はもうエドを見ていなかった。そのまま通り過ぎていく。カツ、カツ、カツ。ハイヒールの音が遠ざかり、やがて消えた。
エドはゆっくり顔を上げた。蒼いスカーフに包まれた手を見下ろし、小さく苦笑する。




