第5話 黒い腕輪
城の西側。本殿から離れた一角に、石造りの棟が並んでいた。
華やかさはない。だが、よく手入れされている。窓枠は白く塗り直され、通路には淡い照明が等間隔に灯っていた。
「ここが、見習い侍従の住棟よ」
アナスは振り返らずに言った。
エドは半歩遅れてついていく。さっきまでの絨毯と白石の城門が嘘のように、空気が落ち着いている。壁には掲示板。何かの当番表らしき紙が貼られ、その横にはいくつかの扉が並んでいた。生活の気配がする。
三階。突き当たりの部屋の前で、アナスが手首の腕輪を扉にかざした。小さな電子音。錠が外れる。
「ここがあなたの部屋」
中に入ると、簡素だが整った空間だった。机、椅子、棚。窓から夕方の光が差し込んでいる。そして中央に——大きなベッド。
エドは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を戻した。
アナスは腰元から、小さな黒い輪を取り出した。
「左手を出しなさい」
「……これは?」
「後で説明する。まず身体を洗って。五分で戻るわ」
冷たい金属が手首に嵌まった。ぴたりと肌に沿い、まるで最初からそこにあったかのように馴染む。
エドが腕輪を見つめている間に、アナスはもう扉の向こうだった。足音が廊下の奥へ消えていく。
◇
静かになった部屋で、エドはゆっくりと振り返った。
床を踏む。足裏が——柔らかい。エドは屈んで触れてみた。草の寝床しか知らない指には、信じられない感触だった。
机に近づくと、天板が淡く光った。思わず手を引く。恐る恐る、もう一度。今度は何も起きない。窓の外には、夕焼けに染まる城の屋根が広がっていた。
そして——ベッド。指で押す。沈む。戻る。
我慢できなかった。エドは飛び込んだ。全身が包まれる。
「なんだこれ……!」
仰向けになり、手足をばたつかせた。
——ふと、手が止まる。
(五分)
アナスの声が、頭の中で鳴る。
「やばい!」
慌てて起き上がり、浴室へ走った。
◇
白い浴室。壁にボタンが並んでいるが、文字が読めない。エドは一番大きいボタンを押した。
数秒——何も起きない。首を傾げた瞬間、天井から温かい水が降ってきた。
「おお……」
心地よい。目を閉じた。
——額の水滴が、さっきより熱い。首筋も。
「……?」
目を開けた瞬間。
「ぎゃああああああああ!!」
◇
扉が開いた。
アナスが一歩入り、足を止めた。
浴室の扉は開け放たれている。湯気の向こうで、エドがタオルを腰に巻いたまま床に座り込んでいた。全身が赤い。肩から腕にかけて、皮膚が痛々しく火照っている。
「……すみません」
アナスは静かに言った。
エドが顔を上げる。目が合った。
「文字が読めないこと、考慮していなかったわ」
しゃがみ込み、手を翳した。淡い光が傷口を包む。指先は冷たいが、光は温かかった。
エドは黙って座っていた。
処置を終え、アナスは立ち上がった。視線をわずかに逸らしながら腕輪を操作し、投影画面に衣服のアイコンを並べる。
「ここを触りなさい」
エドが指先でアイコンに触れると、淡い光が身体を包み——濡れた布が、青白の制服に変わった。
「……すごい」
「行くわよ。車に乗って」
アナスはそれだけ言って、背を向けた。声が、少し低かった。
◇
車の中。
エドは助手席で身体を縮めていた。顔が、まだ熱い。
——さっきのことを、思い出している。
タオル一枚で床に座っていた自分。それを見下ろすアナスの顔。あの一瞬の沈黙。そして——「すみません」と言ったのは、彼女の方だった。
(……見られた)
(一番みっともない姿を、見られた……)
耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
隣では、アナスが忙しく手を動かしていた。いくつもの蒼い光のパネルが宙に浮かび、指先が滑るたびに切り替わる。短い指示が次々に飛んでいく。一言も無駄がない。
エドは、その光を見つめていた。蒼い投影が車内を淡く染め、見たこともない文字と図形が浮かんでは消えていく。
アナスはふと、指を止めた。横目で助手席を見る。少年はまだ耳を赤くしたまま、蒼い投影をぼんやりと眺めていた。
「——身体は?」
不意に、声が落ちてきた。
さっきまでの鋭さとは違う。少し低く、静かな声だった。
「だ、大丈夫です!」
慌てて背筋を伸ばす。それから——小さく、頭を下げた。
「……ありがとうございました。治していただいて」
アナスはしばらく無言だった。それから、前を向いたまま言う。
「今日は客が多いの。時間がない」
声に、仕事の厳しさが戻っていた。
左手首を持ち上げ、自分の腕輪をエドに見せる。
「これの使い方を、簡単に教えるわ。よく見なさい」
エドは頷いた。——だが、視線は操作ではなく、腕輪そのものに吸い寄せられていた。
アナスの腕輪は、深い紫色をしている。
自分の手首を見る。黒。
(……色が、違う)
何を意味するのか、聞ける空気ではなかった。エドは黙って、指の動きを目に焼きつけた。
◇
車は城の西側、庭園に囲まれた棟の前で止まった。
中へ入ると、すでに人が動き回っている。
アナスが短い指示を飛ばし、エドを空いた席に座らせた。
「端末を起動」
腕輪に触れると、光の画面が浮かび上がった。食材のアイコンが並んでいる。
アナスが実演した。アイコンを指で掴み、種類ごとに別の枠へ振り分けていく。野菜、果物、菌類——動きは速く、無駄がない。
「以上。できる?」
エドは画面を見つめていた。
(……整理って、これなのか?)
てっきり重い箱を運ぶのだと思っていた。だが目の前にあるのは光る画面と、その上のアイコン。指を動かすだけ。
(……こういうのも、仕事なんだな)
頷いた。
「やってみます」
最初は指が震えた。だがすぐに慣れる。文字は読めないが、アイコンの形と色、さっきアナスが振り分けた法則は一度で入っていた。作業は意外なほど速かった。
ふと、隣の席に目がいった。若い女性が同じ作業をしている。手元に、蒼い腕輪。
反対側を見る。別の女性。やはり蒼い腕輪。
周囲を見渡す。全員——蒼だった。
自分の手首を見る。黒。
(……俺だけ、違う)
何も聞かなかった。ただ、指を動かし続けた。
少し離れた場所で、アナスがそれを見ていた。黒い腕輪をはめた小さな手が、迷いなく画面を操作している。
わずかに目を細め——何も言わず、背を向けた。




