第55話 決着
凄絶な咆哮が、聖域に響き渡った。
バンーヌが頭を上げた。
視線が——ラファイエの眉間に灯る、赤い聖痕に釘付けになっている。
『お前……やはり、あの——』
言葉が途切れた。
白い面に、一筋の亀裂が走っていた。
ラファイエの錫杖が、光を放つ。
偽りの姿が剥がれ落ちていく。女王の顔が溶け、礼装が崩れ、下から黒白の線が剥き出しになった。
「——静粛に」
ラファイエは口を開いていなかった。
声だけが、空間の隅々に響いた。
『フフフ……アハハハハハッ!!!』
バンーヌは笑っていた。恐怖ではない。歓喜ですらない。
純粋な——狂気だった。
ラファイエの目が冷えた。
錫杖の宝石が、一段と強く輝く。
バンーヌの身体が崩れ始めていた。
足から、腕から、線が解けて塵に還っていく。
だが——頭部だけが、浮かんでいた。
白い面に裂けた口。
『だが——今回は、負けを認めよう』
頭部が崩壊していく。最後の残滓が、薄れながら笑った。
『ああ——楽しかったよ、小娘』
口が、限界まで裂けた。
『また遊ぼう』
そして——青い煙となって、黄金の光の中に溶けた。
聖域に、静寂が戻った。
「……」
ラファイエは目を閉じた。
意識を広げる。この星系の外へ。さらにその外へ。
宇宙の隅々まで、意識が駆け巡った。
数度の呼吸。
「……見つからないか」
バンーヌに似た気配は、微塵も残っていなかった。
最初から存在しなかったかのように。
ラファイエは考えを収め、ひとつ——息を吐いた。
視線が、先刻の星域に落ちた。
砕けた星々。消えた命。自分の光が、加速させた破壊。
瞳の奥に、翳りが過ぎった。
錫杖を掲げた。
「——還れ」
砕けた星々が、逆回しの夢のように組み直されていく。
海が戻った。山が戻った。命が——戻った。
ラファイエが目を開けた時、瞳の輝きはいくらか翳っていた。
疲労の色が、隠しきれない。
ふ——と、小さく息を漏らした。
振り返り、白い聖殿を見つめた。
(第七使徒——か)
(「第七」ということは……この宇宙の裏側に、まだ他の同胞が潜んでいるのか)
金色の瞳が、暗い思案を孕んだまま、聖殿の光に照らされていた。
◇
丘。
東の空を、曙光が一筋、切り裂いていた。
風が、強い。草が大きく波打っている。
エドは剣を手に、立っていた。
動かない。
数歩先に、タリアが浮かんでいる。
左手の二本の指が、ひらひらと揺れた。
「どうしたの? もう諦める?」
エドは答えなかった。
風が身体を揺らしている。
直剣を正眼に構え、微動だにしない。
呼吸だけが、白く立ち昇っていた。
タリアの口元に、笑みが浮かんだ。
一瞬——残像。
エドの剣が閃いた。
鋭い剣鳴が、空気を裂く。
剣先が、二本の指の一寸手前で止まった。
だが——追撃しなかった。
後方に跳び、間合いを取る。
剣を構え直し、息を整えた。
タリアの眉が、わずかに上がった。
再び——残像。
今度はタリアの方から来た。
エドの真横を掠め、背後に回り込む。
エドは振り返らなかった。
身体を捻ることもなく——前に、真っ直ぐ剣を突き出した。
背後のタリアは、そこにいない。
気配が前方に移っている。一瞬前にはいなかった場所に。
剣先が——タリアの胸元に、触れていた。
刺さってはいない。だが——届いた。
「……見事」
タリアの唇が、薄く開いた。
エドは息を荒げながら、剣を引かなかった。
冷たい目で、真っ直ぐに見つめている。
「約束だ。——皆の魂を、ここから解き放て」
「ふぅん」
タリアの細い指が剣身を挟み、軽く弾いた。
肩を竦める。
「つまらない小僧。そんなに、私と一緒にいるのが嫌——」
言葉が、途切れた。
空間が、揺れていた。
音ではない。空気でもない。もっと深い——世界の骨格そのものが、微かに震えている。
エドも感じていた。足元が不安定になる。
「なんだ……?」
周囲の色が、褪せ始めていた。
草の緑が薄くなり、空の青が白く抜けていく。
まるで絵から顔料が流れ落ちるように。
タリアの身体が——揺らいでいた。
輪郭が滲み、霧のように薄くなっていく。
「おい——どうした」
エドの声に、初めて焦りが混じった。
タリアは自分の手を見ていた。
指先が半透明になっている。身体全体が、蒼白く変わっていく。
荒い息。胸が上下している。
だが——その口元に、笑みが浮かんでいた。
視線が、ゆっくりと空を見上げた。
色を失いつつある天蓋の、遥か向こうを。
「……まさか、ね」
呟きは、風に攫われそうなほど小さかった。
崩れかけた身体で、エドに目を戻す。
「思わぬ……拾い物だ」
「ふふ」
白くなった面に、裂けた笑みが浮かんだ。




