第54話 聖徒
スカロディアの声が、掠れた。
磔のまま、顔を上げる。
「私は……或いは……汝の信仰を、理解できるのかもしれない……」
人形の首が、傾いだ。
「万物を導き……命の意味を、見出させること……」
『甘い』
人形が見下ろしていた。
声は冷たい。だが——語り始めた。
『「自我」——それが苦の種だ。分かるか?』
『全ての魂を、一つの意志の下に統べる。それだけが、唯一の救いだ』
人形の周囲に、赤黒い光が膨れ上がった。
『肉を捨て、我らが主の導きに従えば——』
『——魂は、真の神となれる』
「魂を……すべて……『神』に……?」
スカロディアの声に、震えが混じった。
「そのようなこと……如何にして成し遂げる——」
バチィッ——!
乾いた音が、空間を裂いた。
白い掌が、スカロディアの頬を打っていた。
『汝ごときの卑しい常識で——我らが主を否定するな。小娘が』
スカロディアは、しばらく横を向いたままだった。
やがて——ゆっくりと、顔を戻した。
人形が身を屈めた。
唇のない面が、スカロディアの耳元に寄る。
『今の宇宙が全てだと思うか?』
『始まりの刻——宇宙は本来、『始原の神』により統べられていた』
「始原の……神……?」
声は微かだった。
「私は……そのような存在を、聞いたことがない……」
人形の指がスカロディアの顎を掴み、顔を持ち上げた。
黒白の線で編まれた身体が蠢き、融け、再構成されていく。
数秒の後。
スカロディアと寸分違わぬ姿が、目の前に立っていた。
淡い瑠璃色の長髪。同じ顔。同じ礼装。
ただ、その目だけが違う。慈悲はない。底知れぬ怨嗟だけがある。
『かつて——「眷属」の中に、裏切り者が出た』
美しかった顔が、憎悪に引き攣る。
『父神を追放した。——今の、お前たちと同じだ』
四方に、巨大な光膜が浮かび上がった。
映し出されているのは、先刻の惨劇。
スカロディアの金光が星を砕く映像。
『善か、悪か。今の吾が、どちらに見える?』
スカロディアが目を閉じようとした。
ジジッ——。
線が締まり、瞼を固定した。
閉じられない。
崩壊する星々を、見せられ続ける。
「う……ぐ……」
スカロディアが歯を食いしばった。
だが——声は、途切れなかった。
「人の身は……脆い……」
「汝らは……如何なる手段で……あの器に……神の力を……容れるつもりだ……」
人形の動きが、一瞬止まった。
それから——女王の顔が、裂けた。唇が耳まで広がり、白い歯が剥き出しになる。
『それについては——汝ら下位の神が憂うことではない』
「……ならば……上位の神よ」
スカロディアが、薄く笑った。
凄絶な笑みだった。
「この身に……一つだけ、教えてはくれぬか」
「汝が仕えし御方の、名を」
「今まさに朽ちようとしている……名もなき神の、最期の願いとして」
「せめて……何者の手にかかって逝くのか……それだけは、知りたい」
人形は、スカロディアを見下ろしていた。
沈黙が落ちた。
やがて——裂けた口が、さらに広がった。
『汝の如き神格で、主の真名を耳にすれば——その場で消し飛ぶぞ?』
「構わない。——どうせ、もう長くはない」
『……いいだろう。死に際の情けだ』
人形が一歩退いた。
嘲りではなかった。
その声には——信仰に仕える者が、主の名を口にする時の、厳かな響きがあった。
『聞け、小娘——』
『吾は『始原の神』が御許の、第七の使徒』
『その御名は——「バンーヌ・ヒュプノティ」——!』
名が、空間に刻まれた。
「——ッ……!」
スカロディアが呻いた。
名の響きが意識を貫き、その向こうに——巨大な白い輪郭が、一瞬だけ見えた。
目元と第三の瞳から血が滲んだ。
『これが格の差だ——!』
『汝ら弱小の偽神が民を導く。それこそが、宇宙最大の喜劇——!』
使徒が両腕を広げた。歓喜の声。
『主の御許に帰依してこそ、魂は解き放たれる——!!!』
『もっとも——汝がそれを見届けることは、もうないがな。ケケケケケケ——!!!』
「……そうか」
声が、変わった。
掠れてもいない。震えてもいない。
冷たく、澄んだ声。
スカロディアが、ゆっくりと顔を上げた。
先刻まで苦悶に歪んでいた瞳が——瑠璃の金色に、完全に塗り潰されていた。
「汝が描く未来は——実に退屈だ」
「吾は、一片たりとも興味がない」
ゴォッ——!!!
磔にされた身体から、金色の焔が爆発した。
線が焼け千切れ、弾き飛ばされていく。
黒白の空間が悲鳴を上げた。
拘束が——砕けた。
スカロディアが宙に立っている。
使徒の目が、初めて——見開かれた。
『——馬鹿な』
不定形の腕が瞬時に凝縮し、赤黒い骨槍となってスカロディアの喉を狙った。
「——ジャカビシュ」
呼びかけは、静かだった。
世界が、止まった。
骨槍が宙で凍りついている。
空気の粒子が静止し、闇の揺らぎすら消えた。
使徒の身体も——動かない。
『——何だと——?!』
スカロディアの礼装が消えた。
代わりに現れたのは、黒の神官装束。金紋が全身を走っている。
——髪が、変わっていた。
瑠璃の色が抜け落ち、永夜のような漆黒が、風もないのに靡いている。
眉間の第三の瞳が、赤い聖痕となって燃えていた。
その背後。
左に、ターゲルの星光。
右に、ジャカビシュの幾何の輪。
使徒の視線が、聖痕に触れた。
白い面の奥で、何かが——動いた。
「吾は——至高聖庭の聖徒、ラファイエ」
声は穏やかだった。
だが、この次元の端から端まで、震わせた。
「吾が真名をもって——あまねく神聖なる力に号令する」
ジャカビシュの光輪が膨張した。
術式が奔流となり、ラファイエの身体に流れ込んでいく。
背後に、巨大な円形の光輪が展開した。冷たく澄んだ光を放ち、中央に一枚の神聖印が、ゆっくりと回転している。
「——『第三法則』」
「修正を、開始する」
光が、放たれた。
黒白の線が塵に還り、闇が剥がれ落ちていく。
取って代わったのは——絶対の、黄金の領域だった。
ラファイエの背後に、純白の聖殿が浮かんでいる。
金色の霧が立ちこめ、荘厳な聖歌が、遠くから響いていた。




