第51話 神と名もなき者
静寂の中で、裂けた口が笑っていた。
スカロディアの瞳に、金色の光が凝縮した。
冷たく、見据える。
「——正体を現したか」
キィン——。
右掌に金色の粒子が渦を巻き、凝縮し——刹那、一振りの錫杖が顕現した。
杖首に嵌まる宝石の中で、星雲のような光が静かに流転している。
裂けた口が、さらに広がった。
『キヒ——キヒヒヒヒヒ——』
笑い声ではなかった。
無数の悲鳴を重ね合わせて作った、笑いの形をした音。
空間そのものが軋んでいる。
凍りついた記憶の中から、黒い泥のようなものが湧き出した。
腕の形を成し——スカロディアの顔面めがけて、掴みかかる。
「——愚かな」
錫杖が、前に一度だけ回った。
宝石が虚空に触れる。
軽く。
ただ、それだけ。
パキィッ——ゴォォォッ!!
空間が、鏡のように割れた。
亀裂が四方八方に走り、砕けた記憶の破片が星河のように散っていく。
泥の腕は、亀裂に呑まれて消えた。
悪夢の空間が、崩壊していく。
その下に現れたのは、深い星の海だった。
散っていく破片が、赤黒い光を帯びた。
一つ一つに——顔が映っている。
エド・ウォーカーの顔。
無邪気に笑っている。どの破片も、笑っている。
——だが一枚だけ、違った。
顔が潰れ、狂気に裂けている。それも、笑っていた。
笑い声が重なり、ねじれ、耳を侵していく。
「——煩い」
スカロディアが錫杖を半円に振り、手首を返した。
杖首の宝石が——吼えた。
金色の奔流が放たれる。
触れた笑顔の破片が、一枚残らず塵に還っていく。
笑い声が千切れ、消え、静寂が戻った。
金色の光が空間を満たし、冷たい星海を黄金の領域に塗り替えた。
その中心に——黒い霧が、漂っていた。
人型ですらない。ただの靄。
だが、その靄の奥に——赤黒い双眸が、二つ。
「……ほう」
スカロディアは錫杖を背に負い、その双眸を見つめた。
靄が、静かに薄れ始めていた。
「お前は——何方の『神』だ」
声に怯えはなかった。
好奇の色すら含んでいる。
赤黒い双眸が細まった。
笑っているように見えた。
そして——消えた。
黄金の空間に、スカロディアだけが立っている。
眉間に、深い皺が刻まれていた。
「ターゲル——」
リィン——。
ターゲルの星光が渦を巻き、幻霊の姿が浮かび上がる。
「この残滓を追え。——余自ら出る」
ターゲルの星環が一瞬膨張した。
穏やかだった星光が、高速で逆回転を始める。
低い唸りが空間を震わせた。
黄金の領域が——収縮し、消えた。
◇
丘。
東の空が白み始めている。
エドは剣を支えに立ち、肩で息をしていた。
全身が汗に濡れ、手が震えている。
だが——目は、死んでいない。
タリアが数歩先に立っている。
二本の指を立て、首を傾げた。
「どうしたの。もう降参?」
細い指が、ひらひらと揺れる。
「もうすぐ夜が明けるわよ。刺せなかったら——みんなと一緒に、ずっとここにいてもらうから」
エドは答えなかった。
剣を握り直し、タリアの周囲を回り始めた。
焦りはない。足運びは静かだ。
視線が一瞬だけ、タリアの背後に流れた。
淡い炎たちが揺れている。
冷たい目が——一瞬だけ、和らいだ。
次の瞬間、踏み込んだ。
剣が白い光を引いて唸る。
突き、薙ぎ、斬り上げ——。
タリアは笑いながら避けた。紙一重で、嬲るように。
「あはは——全然当たらな——」
空気が、震えた。
この空間のものではない振動。遠くて、深い。
タリアの動きが——止まった。
一瞬。
首がわずかに傾ぐ。何かを聴いているように。
エドは分からなかった。なぜ止まったのかも。
だが——身体は止まらなかった。
「——はぁッ!」
長剣を、真っ直ぐに突き出した。
タリアの瞳が戻った。
身を翻し——反射的に右手を薙いだ。
ゴォッ!!
衝撃波が丘の半分を抉り取った。
草と土が蒸発し、断面が赤熱している。
「——しまった」
タリアの目が、わずかに揺れた。
過剰な反応だった。
その隙に——背後から風を切る音。
「らぁッ!!」
エドが跳躍していた。いつの間に回り込んだのか。
全体重を乗せた剣が、振り下ろされる。
タリアは浮き上がって躱した。
だが——剣先が、指の皮膚を掠めた。
ほんの一筋。赤い線。
エドは着地に失敗し、地面を転がった。
砂を噛み、身を起こす。
タリアは上空から見下ろしていた。
目が、遠くを見ている。眉が寄っている。
しばらくして——視線が、自分の手に落ちた。
掠めた傷を見つめる。
瞬きを、一つ。
顔を上げ、エドを見た。
地面で泥だらけになりながら、まだ剣を握りしめている少年を。
眉の力が、抜けた。
「——あっちより、お前の方がよっぽど面白いわ」
口元が裂けるように弧を描いた。
笑みだった。




