第46話 苦い涙(罪と夢の輪廻編 最終話)
※本話には精神世界内での自傷描写が含まれます。現実の行為を肯定・推奨するものではありません。
闇の中を、漂っていた。
光の裂け目はまだある。だが、もう近づかなかった。
あれは出口ではない。
(どうすれば……いいんだ……)
答えはない。沈黙だけが返ってくる。
その時——目の前を、何かが横切った。
淡い桃色の光。蝶の形をしていた。翅がちぎれ、形が崩れかけている。それでも羽ばたいている。ゆっくりと、力を振り絞るように。
エドの前で、止まった。
手を伸ばした。
触れた瞬間、蝶が砕けた。光の粒になって、意識の中に散っていく。
(……何だ、これ……)
映像が、流れ込んできた。
白い髪の少女が、温かい布で身体を拭いてくれている。
桃色の髪の女が、歌を口ずさんでいる。
黒い髪の女性が、ベッドの横で静かに微笑んでいる。
白い髪の少女が——自分を抱きしめて、眠っている。
知っている。この人たちを知っている。
出会ってから、まだそんなに経っていないはずなのに。
温かい。
(ああ……そうか)
胸が痛かった。理由は分からない。ただ、泣きたくなった。
(会いたい……)
(会いたいよ……)
(僕は——会いたい——!)
闇が裂けた。白い光が、溢れた。
◇
「はっ——」
目を開けた。荒い息。
木の天井。蝋燭の暖かい光。
(……また、ここか)
起き上がらなかった。天井を見つめたまま、息を整えた。
ガチャリ。
「エド? 起きた?」
タリアが入ってきた。
「タリア……姉さん」
「よかった、顔色良くなってるわ」
額に手を当てられる。近い。同じ匂い。同じ温かさ。
「うん、熱も下がってる。もう少し寝たら、すっかり良くなるわよ」
「……うん」
「お腹空いたでしょ? ごめんね、薬草摘みに行った帰りに町まで足を延ばしちゃって。遅くなったの」
タリアが両手を合わせた。
「怒ってない……?」
「……」
蝋燭の炎が、小さく揺れた。
エドはタリアの顔を見ていた。黙って。
「……エド?」
「怒ってないよ」
タリアが少し安心した顔をして、食事を運びに部屋を出た。
…………
食事を口に運びながら、エドはずっとタリアの顔を見ていた。
「ど、どうしたの……顔に何かついてる?」
首を振った。
「美味しくない……?」
「美味い。すごく美味い」
箸を置いた。
「……あの人が作るのと、同じ味だ」
タリアの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
エドは周囲を見回した。この部屋。この匂い。この光。
「同じ部屋だ。同じ匂いだ。——この温かさまで、同じだ」
声が、掠れていた。
「お前も……あの人と、同じだ」
「エド……?」
タリアが手を伸ばした。
パン、とその手を弾いた。
「なんでだよ……」
涙が、頬を伝った。
「なんでこんな希望を見せるんだ。こんなもの見せて……どうしたいんだよ……!」
声が震えている。
ガシャン。食器が床に散らばった。
エドはタリアを押し倒していた。両手が、細い首に伸びる。
掴んだ。
「っ……ぐ……」
タリアの目が見開かれた。手がエドの腕に触れる。弱く、縋るように。
エドの手が、震えていた。
力が入らない。
あの目。あの顔。
——姉さんと、同じだ。
手が開いた。
タリアの上で、崩れるように額を落とした。肩が大きく震えている。
「できない……」
声は、もう子供のそれだった。
「分かってるんだ……お前が偽物だって……この顔も、この匂いも、全部嘘だって……」
「なのに……手が、離せないんだよ……」
指先が、タリアの顔に触れた。眉間から、目尻まで。ゆっくりと辿る。
タリアは動かなかった。目を見開いたまま、何も言えずにいた。
「お前は……こうやって、僕が苦しむのを見るのが好きなのか」
声は穏やかだった。
エドは目を閉じ、顔を近づけた。
唇が、触れた。
一瞬だけ。
離れた。
「僕は、お前があの人だったらよかったと……ずっと思ってた」
立ち上がった。
「……残念だけど、君は違う」
背を向け、部屋を出た。
振り返らなかった。
タリアは床に仰向けのまま、天井を見つめていた。
指先が、唇に触れた。
静かに、涙が一筋流れた。
廊下の足音が遠ざかっていく。
——消えた。
タリアは宙に浮き上がり、空のベッドと散らばった食器を見下ろした。
表情はない。
部屋を出た。
扉を開けた瞬間。
——鉄の匂い。
台所の床に、エドが倒れていた。
右手に、包丁を握ったまま。
首筋に、赤い一文字。血が広がっていく。
「——お前ッ——!」
駆け寄り、抱き上げた。手で傷口を押さえる。
「なんで……こんなことを……!」
「なんでもないさ……」
エドの目は、もう焦点が合っていなかった。
だが、血に塗れた手が持ち上がり、目の前の顔に触れた。
「へぇ……お前でも、そんな顔するんだな……」
口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
純粋で、透き通った、子供の笑み。
「……ありがとう」
手が、落ちた。
笑みだけが、残っていた。
部屋が、静まった。
蝋燭の炎が、音もなく揺れている。
タリアの身体が——溶けるように、崩れていった。
肌が白く、のっぺりと消え、輪郭が歪む。黒と白の線が絡み合った、あの人型。
顔はない。表情もない。
だが——その腕は、エドを抱いたまま離さなかった。
指先が、何度も何度も、少年の頬を撫でている。
顔のない面から、雫が落ちた。血溜まりの中に、ゆっくりと広がっていく。
罪と夢の輪廻編――おわり




